情報に潜む「悪意」を知る
こんにちは。
いかがお過ごしですか?
常々、「集合意識」の問題点、「情報化社会に潜むリスク」に照準を合わせて、ブログの記事を書くことを意識的にしているつもりでおりますが、明確な意図を感じ取っていただけるとは限りません。
また、いついかなる時も、読み手の方が、
「今現在、どのような現状を生きているか。」
という、「偏見」を持たず、中立を心がけ、軸が一方に傾かない姿勢を伝えたいと思っています。
「誰かの味方」として、ある一方の立場に置かれた人を励ますため、そして、もう一方を非難するために発信しているのではなく、ありとあらゆる立場に置かれた方々が、互いに尊重し合い、許し合い、生き抜く道を「自分なりの方法で見つけてくれることを願い、そのきっかけ作り、架け橋となるために、言葉を綴っております。
でも私も、実際に毎日、一般社会の中で生活をし、生きている、普通の人間です。(笑)
悲しみが強い日もあれば、喜びが強い日もあります。
大元に込められた感情を感じて頂けたら、幸いです。
ブログの記事を書く上で、いつでも心がけていようと思うことがあります。
読み手の方の心が迷うことのないよう、自分を客観視して、ブレのない思いを込め続けること、です。
未熟ながら努力しておりますが、もしも自分に迷いが生じるような言葉や、思いを感じたらその時は、教えてください。
自分の間違いを、受け入れ、見つめ直す余地が、きっと私自身にもあるはずです。(笑)
長々、申し訳ありません。
情報化社会の現代において、一つ一つの情報の中には、意識的にであれ、無意識的にであれ、「悪意」が込められていることがあります。
意識的、無意識的、と分けたのは、その発信をする側が、それを分かった上でしている場合と、分からずにしている場合とがあるからです。
ある悪意の込められた情報を受け取る際、
悪意の奥にある悲しみがわからないうちは、悪意そのものから、まず、自分を遠ざけてあげることが大切です。
「いのちを軽んじること」
「性を軽んじること」
それらを促すような言動、映像等の情報の根源には、目には見えない「悪意」が込められている可能性が高いと思います。
時には「逆説的」に用いることで、その真意に導こうとする場合もあり、一概には断定できません。
しかし、「単純に」何が伝わるか、どう伝わるか、というのは、「考えること」に通じた人と、未だ通じていない人という二つの観点から捉えると、リスクを伴う可能性があることを否定できません。
今現在、リスクの方に意識を持っていかれる自分がいるなら…
すなわち、
「悪意」そのものに同調してしまい、興味や関心を抱きかねない自分がいるなら、それ以上の自分への関与、介入を、今すぐに、やめた方がいいです。
自分の精神の成熟度を自覚することが、大切です。
未熟な自分を認め、受け入れることが、何よりも先決です。
本来ならば、そのような情報を発信すること自体を制限できれば良いのでしょうが、
「精神の自由」
「言論の自由」
「宗教の自由」
と法が定めている以上、それは不可能に近いでしょう。
「自由」と「身勝手」は、主張する側の思い一つで、また、受け取る側の思い一つで変わり得るものです。
両者が一つに繋がれることによって初めて、どちらであったか、定まるものです。
ですから、自分を守るためには、その見極めができる自信の定まらない内は、自分で自分を守らねばなりません。
そして、その自信を養うために、生きなければなりません。
「生きているから、養う必要がある」
のではなく、
「養う必要があるから、生きている」
のだと、私は思います。
仕方なくそうするのではなく、自分の意志をもって行うからこそ、初めて、意味を為すのだと、思います。
何事においても、それは共通の概念だと、私は思います。
何をする上でも、欠かすことのできない概念であることが、やがて分かり始めてくるはずです。
そして、分かっていただけるような日々を生きてほしいと、願います。
自分の源を、「愛」で溢れたしっかりとした強い土台として自覚できるようになる日までは、自分が、自分を守ることを忘れずにいてください。
小さな一つ一つの力が、いつしか重なり合って、「社会」の変化を生み出します。
明るい未来を、信じ、願います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。