「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

小児性愛者

こんにちは。

いかがお過ごしですか?




ペドフィリア」という言葉をご存知ですか?



ペドフィリア」とは、幼児・小児(一般的に10歳以下)を対象とした性愛、性的嗜好のことを指すそうです。



「医学的疾患(性嗜好障害)を指して使われるが、一般に障害とまでは言えない小児への性的嗜好全般を指す場合もある。」



と、精神医学上はされているそうです。



「医学」というものは、原因と結果から「病気」を導き出すための学術だと、私は思います。



医学そのものを否定しているわけではありません。



(いつも、自分で記事を書きながら思うことですが…

自分の思想を述べる時に、いろいろな側面や可能性を考え、自分をへりくだって補足を加えているのは、私の「警戒心」が異常なまでに強いせいだと思います。


ですから、ご理解いただける方にとっては、不要なくだりであるかもしれませんが、万一の場合を考えてのものである、と柔軟に受け流していただけたら幸いです。)



現代社会は、「結果主義」の傾向にあります。


目に見える「成果」により、その「過程」までもが美化されることも往々にしてあります。


しかし、偉大な成果を成した人が、必ずしも「人間的に優れた人」であるとは限らないでしょう。



そこに目を向ける人や、身近な場所で疑問に思う人が増えているからこそ、昨今、主にスポーツ界等で「組織」の問題が浮き彫りになることが増えているのだと思います。



つまり、「過程」「源」に目を向け、ものごとの質を考える必要のある、社会なのではないでしょうか?



今日の本題は、「ペドフィリア」と呼ばれる「小児性愛者」が、幼児教育の場に潜む危険性についてです。



私の考えは、「過程」そのものを見つめ、そこをより良く改善してゆく「願い」を込めて、常に働いています。

そう在るために、日頃の思考を巡らせています。



時には、読んでいただく方に、誤解を与えてしまうかもしれません。



世の中のものごとは、「順番」や、「思考の向き」を変えるだけで、全く逆に作用する可能性のあることばかりだからです。



ですから、表面的な言葉そのものではなく、言葉の順序や、込められた思いを感じられるように読んでいただくと、伝わってくるものを捉えていただけるかもしれません。




話が脱線してばかりですね…(笑)

申し訳ありません。



精神医学上、「小児性愛者」と分類される人が、「なぜ」、生まれるのか。



そこに問題があると、私は思います。



小児性愛者」と、断定することを「結果」として排除、隔離することでとどまっていては、改善は見込めないと。



小児性愛者」になった過程には、自分が認識できている記憶、そして、認識できていない可能性のある記憶の中に、「傷」「痛み」があるはずです。


そこを探し、「思考の歪み」を直してあげれば、必ず、直るはずなのです。



しかし、医学では、そこにまで及びません。



つまり、それは、「本人の力」でしか、解決できないものなのです。



なぜ、小児性愛が問題なのか…

一般的に、わかりやすい理由を述べるなら、



未成年、或いは、幼児に対して、性的虐待や、性的暴行を行うことがどうして罪に当たるか、それは、



身体的な点から考えれば、未発達の段階の性器やそれ以外の場所に成人の「圧力」が掛かることで、目に見える「傷」を付けてしまう可能性が高いから。



そして、精神的な点から考えれば、これから先、未来のある人たちに対して、彼らの存在、意志を「尊重」せず、目には見えない「傷」を付けてしまう可能性が高いからです。


「性」というものは、それだけ、人間の「傷」に直結する、重みのあるものです。



そのありとあらゆる「負の可能性」を無視して、実行すれば、罪に当たるのは、当然のことです。


そして、その罪を犯さないためには、「自分自身の傷、痛み」をじっと見つめることが何よりも大切です。



自分の傷から目を背けているから、他者に与えるであろう傷からも、目を背けてしまうのです。



自分の力で直せることを、そうすることから目を背けた結果にあるものが、「精神の病気」と診断される可能性が高いと、考える必要があると、私は思います。



可能性が高い、とあえて補足したのは、「性別」に関わるものも、持って生まれたものではなく、精神の「障害」と分類されてしまうことがあるからです。



これについては、今日はあえて言及しませんが、全てではないことを、補足させていただきます。



*「治す」ではなく、「直す」という漢字をあえて用いて表現しました。誤字ではありませんので、ご安心ください。(笑)





最後に。



私は、自分が他者に対して持つ危険性という点から見て、ほぼ100パーセントに近い確率で、自身を信頼しています。


断言しても構わないかもしれません。



ですから、私の主張する考え方を理解いただける方も、そうである可能性が高いと思います。


なぜなら、私は、今の思考に至るまでの過程で、誰かを師と仰いだり、何かの思想に深く傾倒したりしたことがありません。


しかし、逆に言えば、宗教を含めて、様々な思考法にはある共通点があり、大元に込められているであろう意図を汲み取ることができます。


それを言葉でまとめたものが、私にとっては、「愛」でした。


そして、それは、今の段階で、私の知る限り、思う限りでは、根底でみな、繋がっていました。



ですから、私の思考をご理解いただける方がいたら、もしくは、言っている言葉の意味が何となくわかるという方がいたら、それは、私たちが同じ方向を目指し、同じものを望んでいる可能性が高いはずです。



それぞれの場所から、その「願い」を放ち続け、人々を同じ方向に導いてゆくことができるかもしれません。


力を合わせることができれば、やがて、社会の変化を生み出せるかもしれません。



あまり壮大な話になると、リアリティがなくなり、それは、想像力の育たぬ現代社会では、「拒絶」や「排除」に繋がる危険性があります。



もっと、現実的な言葉に置き換えるなら、


「優しい人、柔軟な人、愛に溢れた人」は、社会に埋もれ、自分を守るために、ひっそりと息を潜めているかのように、暮らしているかもしれません。


それは、人を「尊重」しているからです。


そして、「尊重を全ての人ができるわけではない」と、現実を見つめているからです。


時には、「集団意識」に攻撃されてしまうリスクを知っているからです。



それもまた、今の時点では、事実です。



だから、いきなり大きなことを成し遂げようなど、しなくていいのです。



自分の生活の中で、細やかな人との関わり合いの中に、「愛」を込められる自分でいてください。


傷を与えられることがあっても、傷を与えることのない姿勢を貫いてください。


そして、いつでも、「いのち」を最優先に。


危険からは、すぐにでも、逃げ出してください。


なりふり構わず、逃げてください。



そして、生きてください。

生かしてください。



ひとりぼっちで心を痛めたり、悲しんだり、社会を嘆いたり、世の中を憂いたり、そのようなことに自分の清らかさを使わないでください。


もっと、その清らかさを強く育て、温かい感情を大切に守り、流してゆくための勇気を、見つめ、育ててください。



その思いがやがて、大きな社会の変化を生み出します。


私は、そう信じています。




長くなりました。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。

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