理想と現実
こんにちは。
いかがお過ごしですか?
「人は生れながらにして、愛そのものである。」
それが、このブログのテーマです。
「愛」というのは、本質的な、人間として抱く感情、感覚です。
意識的になされている思考の「前」の段階のものです。
そして、「生れながらにして」という言葉が示す通り、その感情や感覚を自覚するためには、自分自身がその存在を「認知」することが必要だと、私は思います。
そこに確かにあるのだけれど、見えないもの。
見えないから、見失ってしまうもの。
けれど、見失っていることだけは、なんとなくわかっているから、そのままの状態でいることに居心地の悪さを感じます。
居心地の悪さを改めるためには、目に見えないものを、想像し、自分で確かなものとして形作ってゆく必要があります。
目には見えないものを、よく見ようとする時、人はどうするでしょうか?
見たこともないものを、自分なりの方法で形作る時、人はどうするでしょうか?
人から聞いたさまざまな情報を寄せ集めて、それらを集計して、それを形にしてみる。
そして、自分なりの工夫、想像力、想いを加えて、完成させる。
目に見えないものを、目に見える形にするには、自分なりの「思考」がとても重要です。
それをせずに、人の受け売り、人の真似、それでは、似たようなものがいくつも出来上がるだけです。
自分なりの個性をそこに込める。
それが大切です。
つまり、自分なりの方法で、形にしてゆかなければならないのです。
「目に見えること」
と、
「目に見えないこと」
は繋がっています。
日常のあらゆる事柄、物の中に、実は答えのヒントが散りばめられています。
そのヒントから何を気づき、何を得て、どう形にしてゆくか。
どう、自分自身の方法で想いを込めてゆくか。
それだけのこと、です。
形のあるもの、目に見えるものの多くは、人が作ったものです。
なぜ、それができたのか。
それを用いることによって、人々をどのような方向に向かわせたかったのか。
それを常に「思考」しながら客観的に判断していれば、人の作ったものによって、人が支配されることなどあり得ません。
逆に言えば、ものが次々に発展してゆく世の中で、それに込められた源のエネルギーを感知し、選別できなければ、人でさえも、自分たちの作り出した人工的な想念に支配されるでしょう。
それに気づけなければ、自分は、やがて飲み込まれる。
危機感を持つことが大切です。
今日は、抽象的な表現が多いので、読んでくださる方によっては、あまり意図が伝わらないかもしれません。
わかりづらかったら、申し訳ありません。
今日の本題の意図とは、少しズレがあるかもしれませんが…
人というのは、他者に対して、また、自分以外のものに対して、理想や「こうあるべき」等の在り方を問うことは、比較的たやすくできるようです。
それを、自分ができたつもりでいるのか、自分はしなくていいと自分自身に勝手に許可しているのかは、人によりけりだと思いますが。
一番大切なことは、自分の理想、「こうあるべき」という感覚を、自分自身が行うことです。
自分ができて初めて、人にその在り方を提示できます。
そうでなければ、理不尽です。
そして、提示された方も、説得力のない「理想論」と弾き返すでしょう。
まず、自分自身を疑ってください。
今の自分を客観的に、知ろうとしてください。
自分の望まない世界を生きているなら、それを変えられる可能性があるとしたら、それは、自分が着実に、「自分の望む世界を生きるために歩むこと」のみです。
「歩みが遅くて嫌になりますか?」
…それは、誰の歩みと比べてですか?
「過去の苦しみが襲ってきて、辛いですか?」
…あなたが生きている今は、その苦しみの過去と全く同じ日、同じ瞬間ですか?
大切なことは、
「昨日までの自分」と、「今この瞬間の自分」を同じだと決めつけないことです。
やらなきゃいけないとわかっていてずっとできなかったこと。
自分には無理だ、と思い目を逸らし続けてきたこと。
そのための一歩を踏み出すことを、自分に許可してあげてください。
小さな、小さなことでいいのです。
とにかく、今、今、今。
その積み重ねだけを繰り返せば、必ず、変われます。
「愛」を見つけられます。
みんな、そうできるように生まれてきました。
だから、自分は、生まれてきたのです。
意味のない「いのち」などありません。
悲しむ人が一人でも減ってくれますように。
今日も願います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から感謝致します。