「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

キズ

こんにちは。

いかがお過ごしですか?



人は誰しも、多かれ少なかれ、心に傷を抱えて生きているものではないでしょうか。



付けられた傷に対して、そこをずっと見つめていたら、やがては、憎しみと悲しみによって、自分自身が傷と同化していったり、傷に飲み込まれてしまい兼ねないでしょう。



その時、その人は…

自分に傷を負わせた人と同じか、あるいはそれ以上の傷を人に負わせてしまい兼ねません。



「傷つけられた自分」


「傷ついた自分」



を客観的に見つめてみてください。



そして、傷つけた相手の心中を察してみてください。


様々な可能性を想像してみてください。



自分にとって都合よく解釈すれば、自ずと相手を非難することになるでしょう。


しかし、自分から見た人の心中、その人が置かれた環境というものは、全てが「推察」で成り立っています。



だから、その次には、必ず自分を振り返りましょう。



相手の心中を推し量って推察する時、一瞬、自分の非を認めざるを得ない瞬間が訪れるはずです。



その瞬間を逃さずに、グッと意識を高めて、辛さや理不尽さを外に追い出して、自分の「真意」を見極めてみてください。



自分の「言い訳」を、見逃さないでください。




自分が、相手につけたかもしれない傷の可能性、もしくは、相手にその行為を犯させた自分の隙が、あるはずです。




「偽善」も、少なからず、人に影響を及ぼすでしょう。




真剣に生きて、真剣な思いを感じて、真剣に人に思いを伝え続けていけば、そのような場面は、必ず減ってゆきます。



なんとなく生きて、なんとなく感じて、なんとなく上部だけの思いしか伝えずに人と関われば、人も、自分に同じようにしか接してはくれないでしょう。




そして、真剣に生きるようになれば、相手の出方に関わらず、自分がどう接したかに集中することができるようになり、自ずと、結果にこだわることなく、



「自分は、精一杯やった。」



と、納得できるはずです。



「真剣に」生きるためには、全ての感情に対し、まっすぐに向き合わなくてはなりません。



「喜怒哀楽」を、まっすぐに感じなくてはなりません。



どれかに偏った時には、その感情を感じきり、一つ一つを、しっかり受け止め、噛み砕いて「自分」の糧としてゆく。



その作業が、とても大切です。



一つ一つの感情を、見逃さず、目を背けず、感じきり、自分の一部として、自分を大切に育ててゆく。



それが、


「執着を手放す」


という作業ではないでしょうか?



「手放す」


ということを、文字通り、「無かったものとして捨て去る」ということのように捉えてしまいがちですが…



人の記憶力というものは、決して、都合よくできていません。



既に体験してしまったものを、初めからなかったものとして葬り去ることなど、できはしないでしょう。



「執着心」というものは、本来であれば抱きたくない、という場面にこそ生まれるものであると、私は思います。



だから、真逆の方法を選ぶことに意味があります。



執着心を抱かざるを得ない感情を、ジッと見つめ、そこに自分に可能な限りの想像力と工夫、そして、愛を加えて感じ切ることが、「執着を手放す」ということではないでしょうか。



人間は、ロボットではありません。



そして、私たちは、「人間」なのです。




何のために、身に降りかかった出来事だったのでしょうか?



それは、私たちが自分の糧とすべき問題を含んでいたからでしょう。



一生懸命、生きましょう。



私も、そうします。



必ず、「愛を抱いて生まれてきた自分」を、思い出せるはずです。




ただし、これは、実際に自分が生活する環境の中だけで行ってください。



全く見ず知らずの人との関わり合いの場面においては、常に、最大の警戒心と、自己防衛、そして、他者防衛を忘れずにいてください。



過剰な期待や、願望は、時に人を過大に評価してしまい兼ねません。



その時、いのちと心が、危険にさらされてしまうかもしれません。



その危険性だけは、忘れずに生きてください。





悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。





最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。

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