何気ない日常
こんにちは。
いかがお過ごしですか?
「何気ない日常」
その毎日が、知らず知らずの内に、ほんの少しずつ変化していっていることに、みなさんはどれだけ気付けているでしょうか?
私は、以前から…
「一週間」というサイクルが嫌いで、一度終わってくれないかな?と、真剣に思ってきました。(笑)
完全週休二日制で土日休みの方もいらっしゃるでしょうし、そうではない方もいらっしゃるでしょうけれど、私は、前者に当たります。
金曜日が終わると、土曜日…つまり休日がやってきます。
そして、土曜日が終わると、日曜日がやってきます。
しかし、日曜日が終わると、また月曜日がやってきます。(笑)
休日が終わると、新たな週が始まり、また五日間、仕事三昧となるわけです。
老いて、やがては労働が不可能な年齢になるまでは、ずっと、このように「一週間」という概念を感じながら生きてゆくのでしょう。
その繰り返しで生きていると、「日常」の変化には、気づきにくくなっているようですが、実際には、
日1日と、自分も、周りも変化しています。
生まれたばかりの赤ちゃんが、ハイハイを始め、つかまり立ちをするようになり、やがては、小学生になり、中学生になり…気付けば、この前生まれたかと思っていた子が、成人していたり。
「時間」は、常に流れています。
新たな一週間が訪れるのを止められないように、私たちから「時間」の流れを引き離すことはできません。
「大切な人」も、「愛する人」も、「憎い人」も、みんな、やがてはお別れをする人たちです。
限りのある、尊い人たちです。
そのことに、どれだけ気づけているでしょうか。
今日、目の前にいる人が、明日も変わらずに目の前にいてくれる保証など、どこにもありません。
今日、生きている自分が、明日も変わらずに生きていられる保証など、どこにもないのです。
「いつ死んでも構わない。」
「こんなに辛いなら、死んだ方がマシ。」
それなら、一度死んだつもりで、真逆の自分を生きてみるというのは、不可能でしょうか。
一度きりの人生で、どうせ捨てるつもりの命なら、その力を精一杯振り絞って、「生きてみる」ことだって、できるはずです。
今日の自分を愛せないなら、今日の誰かを愛せないなら、一旦全てをリセットして、生まれ変わった自分を、もう一度、生き直す。
「心」を酷く傷つけられて、生きているのが苦しくなってしまうほどの痛手を負ったとしても、
「自分には、まだ、いのちがある」
ということを思い出してください。
いのちがある限り、歩む景色は、いかようにも変えられます。
しかし、死んだら、全てが終わりです。
人の根底には、皆、「生きたい」という生命力が存在しています。
だから、人は呼吸をしようとするし、心臓は鼓動を刻んでいます。
幼くても、老いていても、皆、誰かにとっては、かけがえのないいのちです。
みんなが、生まれたばかりの時には、小さな小さな赤ちゃんであったし、みんなが、やがては、おじいちゃん、おばぁちゃんになります。
同じ時を刻む「同士」として、みんなが、「この世に生を受けた時から、やがては死を迎えるさだめの者たち」という、人間としての宿命を肌で感じて、生きてくれるように願います。
一番大元にある、その基本的な摂理を忘れずにいられたら、一時の争いや、様々な困難に感じられる出来事も、受け入れられるはずです。
大きな世界を見つめたら、身の回りの小さな世界を見つめる。
自分の周りの小さな環境で起こることに立ち止まったら、自分のいのちの源にある大きな摂理を思い出す。
そのようにして、「生きる」、「生かす」ということを、何気ない日常の中にいればいるほど、実感しながら、様々な出来事を乗り越えてほしいと、願っています。
人は皆、生まれたばかりの小さな握りこぶしの中に、「愛」を大切に握りしめて生まれてくるのだと思います。
だから、赤ちゃんは、ギューっと、その小さな手を握りしめているのではないかと、私には思えます。
成長と共に握りこぶしを開いてゆくのは、その愛を放つため。
決して、失うためではないはずです。
そして、放った愛を、広い集めて大切に自分の中に戻してゆくことが、「生きる」ことの意味だと思います。
生まれてすぐに、自分が放った愛が、誰にでもあるはずです。
最後に…
命の長さは、人によってそれぞれです。
しかし、記事の中でも申し上げた通り、命が終わる時がいつであるかなど、誰にもわかりません。
実際に、最期を迎える時までは、何が起こるかなどわかりません。
長かろうと、短かかろうと、尊さに大小などありません。
自分の命、そして、他者の命の尊さを、忘れずにいてください。
悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。