「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

人間とは

久しぶりにブログを更新します。(笑)



みなさん、いかがお過ごしですか?(^-^)




「老い」とは、全ての人に必ず起こります。



人は、おぎゃあとこの世に生を受けてから、その命を全うするまでの日々を生きます。



この世に産み落とされた日から、毎日毎分毎秒、「老いること」を始めます。


そして、「死」への旅路を歩み始めます。



幼い頃は、それを「成長」と呼び、ある一定の年齢を過ぎると、それは「老い」と呼ばれるようになります。



その基準は人それぞれであるかもしれませんが…ある年齢までは、人は年齢を重ねることを待ち焦がれ、そして、次第に、それを恐れるようになってゆきます。



きっと、「死」という概念を抱く強さが、日増しに増してゆくのでしょう。



そして、「老い」を感じるようになった人々は、「若さ」に執着するようになります。



自ら、「若さ」を持つ人々は、「老い」を疎ましく思います。



いつか自分がそうなるまでは、何も気付かずに。




「若さ」に執着する人々は、思い出してみてください。



自分にも同じように、若さに輝いていた時間があったことを。


その日々は、消えたわけではありません。



自分の一部と、なっているのです。



そして、そのような日々を通り過ぎ、日増しに皺の増える自分の顔を見て、今の自分をありのまま、受け止めてください。



若かった頃の数々の記憶、思い出と同じように、その頃の自分の輝きもまた、今の自分の中に変わらずにあることを忘れずに生きてください。


「老い」を恥じらうことなく、「老い」を学び味わう心を、大切にしてください。



そして、今の自分をありのまま受け止め、愛し、次なる世代へ、自分の中の愛を放ってあげてください。




「若さ」を自負する人々は、老いた人々を疎ましく思うことなく、彼らの中にある葛藤を、感じてあげてください。



「失う」ということは、誰にとっても恐れを抱かずにはいられないものです。



その恐怖を察し、彼らを慈しんであげてください。



やがては、あなたもまた迎える日々を、一足早く味わっている人々に、優しい笑顔と温もりを分けてあげてください。



高齢化社会により、若い人たちは、自分たちの老後には、公的年金を受給できないかもしれない…などと言われている昨今ではありますが、そんなことは、その時になってみなければわからないはずです。



もしも仮に、そうなったとしても、それは、誰のせいでもないはずです。



誰のせいでもないことで、誰かを責めるのは、おかしなことだと、思いませんか?






人間とは、弱い生き物です。


何かしらの対象を敵視したり、蔑視したりして、自分の均衡をようやく保てる…

そんな身勝手な生き物です。



だからこそ、その弱さを知り、それに打ち勝つ力を養う必要があります。



自分の心の曇りを知り、見抜き、それを拭い去る努力を怠ってはいけない生き物なのです。


自分の心を、見つめていますか?


あなたの心は、曇ってはいませんか?



その曇りは、表面上は、誰か自分以外の人を攻撃しているように見えますが、実際には、自分自身を攻撃しています。



だからこそ、曇りを晴らす努力を怠ってはならないのです。



自分の心を晴らしてくれるのは、



「人に優しくできた時」


「人と笑顔を交わせた時」


「人と理解し合えた時」



きっと、そんな時です。



みなさんもどうか、そんな日々を生きてください。





最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。


「自律神経」

こんにちは!



今日は、「自律神経」に関して、記事を書かせていただきます。



…とは言いましても、医学的見解は、私のような素人には無理なので、専門的な見解ではなく、「思考」という観点から見た、「自律神経」との関係性について、私なりの意見を述べさせていただきます。



誤った知識等、何らかの問題があるかもしれませんので、正確な知識を必要とされている方が、もしもこの記事に辿り着かれた際には、あらかじめご了承いただけましたら幸いです。



私には、人体の構造や、各神経系組織等への知識は、ありません。ほぼ、皆無とも言えます。



しかし、古くから…



「病は気から」



という言葉もあります通り、近年、「心の病」を患う方が増加の一途にありますことを、大変心苦しく思っておりました。



そこで私が注目したのが、「自律神経」でした。



「自律神経」の乱れにより、人は様々な病気を招くとされております。



このような理由を考えてみた時、まず私は、「自律神経」という名前の漢字に着目しました。



「自律」という漢字を、



「自分を律する」



と読み解きました。




常々、自分の思考の向きや、そのコントロール、はたまた、ストレスから身を守るための「思考法の工夫」について記事を書いてきたつもりでおります。



「幸福感」という観点においても、それは、とても大切なことでありました。




「性愛説」…すなわち、「人は生まれながらにして愛そのものである」という仮説に基づき、その姿が「本来の自分自身」であり、その姿に帰ってゆくことを目的に生きることで、人は幸せを感じられるようになってゆくもの、と考えてきました。



そして、このブログを読んでくださる皆様を励まし、癒し、私自身も共に人として成熟を目指し邁進してゆけたら…との思いで、言葉を連ねて参りました。



そんな中、ふっと…



「自律神経」



という言葉に辿り着きました。




「人というものは、往々にして、表面的に物事を改善すべく思考し、動くもの。」



であると、私には見えてきました。



しかしながら、



「本質を捉え、源を改善してゆくことこそが、全ての問題を解決できる唯一の方法である」



とも、同時に思っておりました。



そのように考えてきた私に、新たな気づきを与えてくれたのが、この「自律」という言葉でした。



心を病んだり、ストレスから体調を崩された方々の多くが、医師により「自律神経の乱れ」を指摘され、その改善のために、食生活、生活習慣を見直すことや、薬物による治療を余儀なくされていらっしゃることと、推測致します。



しかし、「自律」の文字の示す通り、何より必要なのは、



「自分を律する心を育むこと」



であると、私は思います。



その入り口が、宗教を介してであったり、他者を介してであったり、自らの経験を介してであったり、はたまた、一冊の本との出会いを介してであったり…それは、果てしない数、おそらくは、この世に存在する人の数だけパターンは存在するのかもしれません。



しかし、その先に通じる道は、必ず、ひとところで交わり、繋がっているものであると、私は考えてきました。



その先に待っているのは、「愛」であると。




そこにたどり着くために思考することこそが、



「自分を律すること」



に繋がります。



「律する」



という言葉の意味は、



「定める」



とされております。



「定める」



とはすなわち、自らの中に「軸」を置く、とも取れます。



その「軸」を育むことにより、「自律神経」は、揺らぎの幅を狭めると私は推測しました。




木の幹も、同じですよね?



幹が太くなればなるほど、揺らぎを防ぐことができます。




自然界に存在するものを通じて、人の在り方や思考を追求する時、必ずと言っていいほど、共通の理由を導き出せると私が考える理由もまさに、ここにあります。



壁にぶち当たり、自分の進むべき道、選ぶべき選択がわからなくなった時には、自然の与えてくれる生命力を感じ、その源にある概念と同様に素直に生きることが、人間には必要だと思います。




揺らぎの幅が狭まる時、人には不思議な現象が起こります。



その幅から消えてゆくのは、「ネガティブな想念」に限られるという点です。



苛立ちや、腹立たしさ、憎しみ、悲しみが、薄れてゆきます。



ネガティブな感情に飲み込まれる時には、呼吸が荒くなったり、心拍数が上がったりしますよね?



もちろん、感動や、喜びといったポジティブな感情によっても、身体に変化を感じることがありますが、これらの場合には、「不快感」は伴わないでしょう。



つまり、ネガティブな感情により、不快な興奮状態を自らに引き起こすことにより、人は、身体と心を蝕まれてゆくものなのではないでしょうか?



それを、昔の人は、



「病は気から」



というメッセージとして、私たちに残してくれたのではないでしょうか?




自らの精神の向かう先、在り方を追求することは、人が、健康に寿命を全うする上で欠かせないことだと、私は改めて思いました。





自分を律するための第一歩、への足がかりとして…



最近、出会ったことがらの中に、自分の興味、感動を深く味わえたことはありますか?



もしも、心当たりがあるのなら、そこに、あなたの探す答えがあるはずです。



一瞬の感動をないがしろにせず、捕らえて離さないでください。



何気ない日常の一瞬一瞬の中に、自分の可能性は散りばめられています。



もしも、その一瞬に出会えたなら、それについて、深く知ろうと探究し、そして、思考してみてください。



自分の可能性を、自分で広げてあげてください。



必ず、「自律神経の乱れ」は、改善されてゆくでしょう。



そして、朝昼晩の過ごし方は、きちんとその時間帯ごとの自然の変化を感じながら、「生命をいたわる心地」で暮らしてください。



その日々にすっかり慣れた時、きっと、「自分の願い」がわかるはずです。(^-^)



「夢」を抱いていた日々を、取り戻せると思います。


私も、頑張ります!





長くなりました。(笑)


最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から感謝致します。


追記(笑)

本日は、「番外編」と称する「追記」をご用意致します。(笑)



是非、空いた時間にご賞味ください!(^-^)




人に見える景色というものは、自分の心の反映でもあります。



「人から好かれたい」



という思いが私に見せてくれた景色は、



「人から嫌われているかもしれない」


「人から嫌われるかもしれない」 




という、気弱で臆病な自分も他者も信頼できない寂しい景色でした。




しかし、



「人が好き」


「人を愛したい」



という自分の願いに気づいてからの私に見える世界は、



「人の温かさ」


「人の笑顔の温もり」


「愛」



そんな、輝かしいものばかりです。



その時、自分の不平、不満、悩みは、とってもちっぽけに見え、心の隅っこに、微かに存在する程度になりました。(笑)



一瞬、落ち込みそうになったら…




私は、魔法の呪文を唱えて、また、笑います。(笑)




「ケ・セラ・セラ」



と。(^-^)



「なるようになるさ。」


「なんとかなるさ。」



すると、また、私の目の前に広がる景色は、強く輝き始めてくれます。




人生は、なるようにしか、ならないでしょう。



そして、為せば成る、為さねば成らぬものでもあります。




どうにもならない、どうしたらいいかわからない、と悩む時間があるのなら…



どうすれば良いか、何からまず始めたら良いか…、欲張ることなく、自分にいきなり重責を課すのではなく、自分を労わりながら、ねぎらいながら、はじめの一歩を探し、前を向くのです。



ゆっくり、のんびり、落ち着いて、生きるのです。




朝は太陽の光をしっかり浴びて、ご飯をきちんと食べ、夜はしっかり眠るのです。(笑)




当たり前のことを、当たり前にできるようになったら、改めて、次のステップが見えてきます。



「太陽が綺麗だな。」


「日差しが心地良いな。」


「ご飯が美味しいな。」


「夜だから、眠いな。」



そう感じられるようになってきたら、その思いに素直に従い、その思いを、愛しく受け取りましょう。



そして、そのような感覚を取り戻せた自分をしっかり褒め、そして、感謝しましょう。



「自分が生きていられること」



「自分が生まれてきたこと」


に。




人々が悲しい思いをしなくて済むように。



みんな同じ、等しく価値のある命であるということに。




誰しもが気づいてくれますように。





…それでは(^-^)

課題への取り組み

こんにちは!



今日は、今年の私の課題である


「ルーティンワークを攻略する」


について、記事にさせていただきます。



私は、幼い頃から、人の目をとても気にしていました。

幼い頃は、ただ単に、

「嫌われたくない。」

「憎まれたくない。」

「可愛がられたい。」


そのような意識であったと思います。

それが、成長に伴い、次第に変化してゆきました。思春期を過ぎたあたりからは、


「嫌われているに違いない。」

「愛されるはずがない。」

「受け入れられるはずがない。」

と、自分自身を勝手に評価していました。


他者との関係を築く上で、密度が高くなればなるほど、その感情は増してゆきました。


ですから、私は、他者と関わる上で、いつも、「本当の自分」を隠していました。


しかし、数年前から、次第に、私は変化していきました。


私が、「本当の自分」だと思っていた自分こそが、「偽物の自分」だと、気づいたのです。(笑)


「人に好かれたい。」

「人から憎まれたくない。」

「人から可愛がられたい。」


そう思っていた自分の本当の姿とは、

「人が好き」

「人を許したい」

「人を愛したい」


そのままそっくり、本来の自分自身の自発的な願望であったことに気づいたのです。


私は、自分自身に不思議な違和感を感じながら、ずっと生きてきました。


自己否定感と自己肯定感。


そのどちらもが、他者より強烈で、激しいことを知っていました。


だからこそ、人との関わり合いにおいて、異常なまでの警戒心と、同時に、根本的な信頼を抱えてきました。


矛盾する、相反する二つの感情の交わるところを、追求してきた…と言えばよいでしょうか?


そのような、神経質なまでの繊細さを、自分自身で気づいていながら、手懐けられずにもがいてきました。(笑)


ところが、それが、自分の苦しみの根本的な原因であることに気づいてからは、みるみるうちに、私は変化してゆくことができました。


そうして、たどり着いた課題が、

「ルーティンワークを攻略する」

です。(笑)


この流れでは…支離滅裂だと、思われますか?(笑)


これは、おそらく、私を含め、他者の思考について思いを巡らせすぎる「繊細」な人に共通する独自の観点だと思いますが…


「これをしたら迷惑だろう。」

「これは言わない方がいいだろう。」


などと、他者の負担を先読みして思いやることにより、かえって負担を掛けてしまったり、より問題をこじらせてしまった経験に、心当たりはないでしょうか?


他者の思考を勝手に決めつけて、冷静で客観的な判断をくだせない場面、というものに出くわしたことが、ありませんか?


私は、多々、あります。(笑)


そんな時を振り返ってみると、私は、いつも、自身の選択に自信を持てず、迷っていました。


しかし、複数名で働く職場などにおいては、時には、その曖昧さが、より一層他者に迷惑を掛けてしまうことがわかってきたのです。(笑)…ようやく、ですが。


ですから、自分一人が気負うことなく、先読み先読みしながら、均等に負担を分け合ってゆく意識…すなわち、

「自分」

と、

「他者」


を同様に信頼し、助け合える環境づくりには、余計な詮索や気負い、過信、そのようなものを取り除くクールさ(客観性)が必要であると、認識致しました。


そして、それらの先に存在したのが、

「ルーティンワーク」

と言われるものでした。


思い返してみれば、私は、自分が「ルーティンワーク」を苦手としていることだけは、はっきりと気づいていました。


しかしながら、その理由にまでは、思考を巡らせたことがありませんでした。


世の中の出来事の根本的な原因や、人の性質の源というものは、人間が思考するよりもずっと、「シンプル」なものです。


そして、自らの課題というものは、その源を改善してゆくことにより、その先にあったいくつもの問題を同時に解決してゆくことができるものです。


自分に、必要な変化を気付かせる。


そして、気付くことができた課題には、真摯に取り組む。


気長に、気負うことなく、焦ることなく、自身の変化を味わう。


この過程と、繰り返しにより、人は、「強い芯」を育ててゆくことができます。



人間とは、本来、シンプルな素直さを何より
大切に見つめるべき生き物なのでしょうね。



今年の私の課題の表明に、長い時間お付き合いくださいまして、ありがとうございます!


割いていただいた時間に恥じることのないように、精進致します!(^-^)


みなさんも、是非、自身の課題を探してみてください。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。

満足への飢餓

こんばんは。



今日は、記事を書くのはやめようかな〜と思っていましたが…

フッと、感じたことがありましたので、短く、伝えさせていただくことにしました。(笑)



では、手短に…




いつも何かを欲しているばかりの人というのは、「満足感」に対する飢餓状態である、と私は思います。



たとえば、人に何かをしてあげる時、最初は誰しも見返りを期待などしてはいないのではないでしょうか?



しかし、関係性が密になってきて、



「何かをしたら、何かを返してもらう。」



それを繰り返すうちに、



「何かをしてあげるのだから、何かを返してもらって当然。」



という状態が訪れるわけです。




もしも、誰かに何かをしてあげなくてはならないような状況になったとしたら、



「自分は、この人のために、してあげたいと思ってするのだから、見返りなど一切期待しないで、やろう。」



そういう考え方を、意識的に自分に教えてあげてください。



それは、「満足感」への飢餓状態から、自分を脱却させる方法でもあります。



「与える」、「受け取る」すなわち…

give & takeを前提とした関わり合いではなく、「分け与えても減らないものの存在」を感じるきっかけになってくれるはずです。



その存在を感じることで、「自分にしかできないこと」、「自分だからできること」の大切さを感じられるようになるでしょう。



それが、自分を肯定して、自分を育む糧になります。



その時、「満たされている自分」に出会えるでしょう。




そして、なぜこれまでの自分が満たされていなかったのか…その答えが、わかるはずです。



みんな、誰しも、そんな風になりたいと心の奥で願いながらも、


「それじゃあ自分は損をする。」


「嫌いな人間が得をすることになる。」



と、不安を抱いているのですよね?

私もそうだったから、よくわかります。



でも、もっと大きくて広い視野を持って見てみれば、最終的に自分を救ってあげられた者が、勝つのです。



「自分の人生」



という自分だけの舞台において。



だから、恐れは手放して、自分のためにも、変化を促してあげてください。(^-^)




…宣言通り、今日はこの辺で。(笑)



良い週末をお過ごしください。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から、感謝致します!


イメトレ。

こんにちは!



私はよく、ワイドショー(古い表現で申し訳ありません…。)を観ている時に、司会者、ゲスト、コメンテーターの方々の意見を聞きながら、自分なら、番組内で取り上げられている出来事に対して、どのように意見するだろう…また、現実で直面したとしたら、どのようにするのだろう、とイメージトレーニングをしています。(笑)



皆さんは、いかがでしょうか?



兼ねてより、私は、「性善説」に対しても、「性悪説」に対しても、否定的な人間です。



自分以外の人の行いに対して、「善」、「悪」のどちらであるかをジャッジすることにも、意味を見出せません。



「現実的に」既に起きてしまった出来事に対し、他者がどのようにその出来事を捉えるか…に、そもそも興味はありません。



…というよりは、それに関して、人の意見を聞くことそのものに、興味を抱けません。



このように言ってしまうと、とても冷酷な人間であるかのように思われてしまうかもしれませんが…(笑)



決して、そのような意味ではありません。



人の意見は、あくまでも「その人のもの」です。



ですから、いかなる場面においても、「自分の意見」を感じるように気をつけています。



これは、たとえばSNS上での情報に触れた時や、いわゆる集合意識から、自分自身を切り離して思考する練習になります。




自己責任という観点においても、人の言動に左右されて、後々後悔せざるを得ない状況に自分を追いやるような場面から自分を守ることにもなります。




更に追究してゆくとすれば、


「人の振り見て我が振り直せ」



ということわざもある通り、自分自身の身を引き締めることもできますし、また、「善」「悪」の基準に当てはめないとしたら…


どのように考えて行動することにより、問題に直面した時、その問題を解決したり、回避したりすることができるのだろう、という「工夫」を生み出すことにも繋がります。



人の思考は、千差万別が、正常なのです。



各々の違いを意思の疎通というコミュニケーションにより擦り合わせながら、より良い方向へと歩んでゆくことが、大切です。



争いを、争いのまま終わらせないためには、争いから、より良い未来を導き出すためには、互いの意見を尊重しあいながら、不平不満を取り除き合うべく、同じ方向へと導き合うことが大切なのです。



そして、その気持ちで他者と関わり合うことこそが本質的に大切なことなのであって、もしも、双方の理解が得られず、和解に向かえなかった場合には、それもまた、結果の一つとして冷静に捉え、次に繋げる意識に切り替える。



あくまでも、大切なのは、「過程」であり、そこに全力を掛けられれば、「結果」は自ずと付いてくるものでもあります。



そして、全力を掛けた結果が、想定外であった場合にも、自分の行いに、必ず納得できるはずなのです。



描いた理想は、現実で、「リアル」へと落とし込む。



その積み重ねが、自分を育ててゆくことを、是非、楽しんでください。(^-^)



最悪の事態をまず想定して、自らを危険から引き離す。



危険の可能性を排除したなら、次は、前向きにものごとに挑む。




挑むと決めたのなら、全力で、楽しみ、味わう。



全力で楽しみ、味わったのなら、決して、その責任を他者に問うことはせず、自己責任として、自分を納得させる。



私は、その思考を繰り返し練習してゆくことで、だいぶ、現実的に充実した日々を生きられるようになりました。



是非、挑戦してみてください。



先日引退された稀勢の里関の、幼少期のメッセージに、とてもステキな言葉を見つけました。



今日は、それを最後に綴らせていただきます。



「天才は生まれつきです。もうなれません。努力です。努力で天才に勝ちます。」




素敵な言葉だと思いました。

自分の心一つで、人は、いかようにも、自分自身を導くことができます。



私も、頑張ります。(^-^)



最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から、感謝致します!

介護対策

こんにちは。



今日は、「介護」について、記事を書かせていただこうと思います。



高齢化社会が、年々加速傾向にある近年、介護に関する問題に直面されて、お困りの方々について耳にする機会も増えております。



そこで、健康な内に私たちにできることはないのだろうか…と、考えを巡らせてみました。



私たち日本人は、その国民性から、慎ましやかで、控えめな印象を他国から抱かれております。



そして、「武士」の持つイメージの通り、静の奥に隠された気高いプライドもまた、私たち日本人の多くが昔の人々から受け継ぐ個性ではないでしょうか?



その気位の高さゆえ、高齢化社会となり、やむを得ないにも関わらず、介護をする側、される側の双方が、苦しまなければならないような問題も山積みとなっています。



しかし、人の一生を図にして描くとしたら、生まれたばかりの、母やそれ以外の保護者の手を借りなければ何もできない赤ん坊として始まり、次第につかまり立ちをし、一人歩きができるようになり、学生になり、成人し…


成長の一途を辿る上り坂のグラフを描いた後は、中年期以降、足腰も弱り、記憶力も衰え、やがて老人となり、今度は下降線のグラフを描かざるを得ない私たちでもあります。



平均寿命と健康寿命との間に数年間のギャップを持たざるを得ない私たちにとって、今後、介護に対する、「与える側、受け取る側」双方の抵抗感を払拭してゆく必要があることは、否めないのではないでしょうか?



私は、以前から…

自分に対して、理不尽な対応をされた時、自分がそれに対して、どのように場を収めるか…という決断を迫られた時には、自らを納得させるために、



「プライドを捨てて守れるプライドもある。」



と、言い聞かせてきました。



誰しもが、人からよく見られたい…などという類の承認欲求を持って生きています。



そして、それは、必ずしも全てが、悪いことだとは思いません。



しかし、その欲求が、自分を向上させるために作用するのならまだしも、自身を追い詰めるような作用をもたらす時には、私は、拭い去ることが何よりである、と考えています。




介護という問題に関して考えた時に、これまで五体満足で暮らしていた愛する家族が、自力で用を足せなくなったりした時に、介護を受ける側も、与える側も同様に、互いのプライドを尊重したいが故の葛藤を抱くものなのだと思います。



汚物の処理をする側も、される側も等しく、健康な時に感じていた羞恥心を、半ば強制的に剥ぎ取られるような感覚にとらわれてしまうのは、至極当然のことのように思えます。



けれど、人は皆、やがては老いて、身体の自由もきかなくなるものです。



現役時代、どれほど精力的で、快活な人であったとしても、老いは命の続く限り等しく皆に訪れ、それを互いに認め、受け入れていく必要のあるものです。



だからこそ、一瞬一瞬が輝くのだと思います。



そして、輝きを失ったからといって、命の重みに変わりはないはずです。



高齢化社会になり、老人が増えたからといって、決して、ないがしろにしていい命ではありません。



私たちもまた、やがては、同様の道を歩んでゆくのです。



だからこそ、「老い」への道の始まりを切実に認識し、心の準備を自覚することも必要な世の中になってきていると、私は思います。



決して悲観的に老いを嘆くのではなく、それもまた、人生の一部として捉え、体力が若者より劣ってきたと感じたのなら、素直にそれを受け入れ、次のステージを目指す。



例えば、若者に、体力では敵わなくなったとしても、成熟した人格を育むことに徹することは、老いてからでもできます。



また、後進の育成に尽力することもできるでしょう。



幾つになっても、学び、育むという姿勢で生きられれば、いかなる年代の人とでも、交わって互いに尊重し合って生きることは可能です。



長々と綴ってまいりましたが…


今日、みなさんに提示したかった案を、ここで発表させていただきます。(笑)




私は、以上のような事実を踏まえて、中年期から準備できる介護への備えのある一つのパターンを提案したいと思います。



愛する人がいらっしゃる方、また、夫婦としての連れ合いがいらっしゃる方に対しての提案となります。



もし、今現在、そのような間柄の方が身近にいらっしゃらない方は、いずれ、そのような方に出会えた時に、是非、提案してみてほしいと思います。



それは…


互いに、健康な内から、汚物の処理をし合ったり、介護状態になったと仮定して、シミュレーションをしておく、という方法です。



愛するということを、互いに良いところを見せ合うこと、見つめ合うこと、と捉えている方々が多いことと思います。



しかし、「愛する」ということは、決してそれだけではありません。



互いの欠点を補い合うことでもあり、互いの欠点をも含めて思いやることでもあります。



「お金持ちだから、結婚した。」


「ルックスが良いから、結婚した。」



きっかけは人それぞれ自由です。

しかし、それだけでは、男女の関係は継続できません。



互いの思いを打ち明けあい、互いに思い合い、生きてゆかれる人が側にいてくれることほど、心強い人生はないと思います。



将来的に「介護」に直面した時にも、愛をもって互いを尊重し合える関係を、健康な内から見据えて築き上げてゆけるような方に、みなさまが出会えますように、心から願っております。(^-^)




最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から、感謝致します。