「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

休憩

こんにちは。

いかがお過ごしですか?



今日も朝から、いろいろと伝えたいことが湧いてきました。(笑)



でも、今日は、「ガッチガチ」は、やめておきます。




私は、いつも、朝起きたらまず、このブログのことを考えます。

歯を磨くより、顔を洗うよりも先にです。(笑)


今日は、見知らぬ誰かの心を、ほんの少しでも癒せるだろうか。



そのためには、何を書こうか?


どのような言葉なら、心を感じてもらえるだろうか?


どうすれば、「自分」の想い、願いに気づいてもらえるだろうか?


(この「自分」とは、「私」ではありません。

読んでいただく方ご自身のことを指しています。)



そんなことを考えます。



私は、決して、エネルギッシュ、パワフルな人間ではありません。(笑)



それを自分でよくわかっています。



決して「愉快」でも「痛快」でもありません。(笑)



だから、私が、ブログを読んでくださる方自身を変えてあげられることは、ありません。



そのような影響力は元よりありません。(笑)



読み手の方の中には、私がこのブログの中に並べる言葉の字面から、「威圧感」「強要」とも取れる何かを感じる方もいらっしゃるかもしれません。


「そこまで読んだことないし。」


と、言われてしまえば、また、それも事実かもしれませんね?(笑)



今日一日だけ。

たった一瞬だけ。

人生の中の、ほんのひとときだけ。



私の込める想いと、読んでくださる方が出会うのが、たとえそんな風にわずかな時間だったとしても、そこに「愛」を感じてほしい。



温かさを、感じてほしい。


それを、いつかどこかで繋げてほしい。

育ててほしい。



顔も、名前も、住んでいる場所も、わからないけれど、どこか、それぞれの場所で、みんな笑っていてくれたらいいな…


悲しんで、寂しがって、今この瞬間辛い人が、少しだけ、そこに向き合ってみようかな…


そんな風に勇気を持ってくれたらいいな。



そう想いを込めていることだけは、誰にも負けません。(笑)



私も、同じだったから。



日常的に、あえて自分の生活感や、主観を極力避けるように文字を並べているのは、わざとなんです。(笑)



いろいろな人に、届くようにって。



暑苦しいと、拒絶されちゃいそうなんで。

(笑)

充分過ぎるほど、既に暑苦しいのかもしれませんが…。




世の中には、いろいろな人がいます。

会ったことはなくても、それだけは、想像できます。



理想と、現実が、遠くかけ離れていることは、たやすく想像できます。



だから、私も、現実的に私が存在している生活、環境の中で、「理想」を「現実」と繋げていかれるように、自分のできることから、コツコツとしてゆきます。



怖がらず、勇気を出して、そして、いつでも謙虚に自分を律していられるように。



私が常日頃、「愛」という言葉を使う時に意図してるのは、決して「恋愛」のことではありません。

ご理解いただいているとは思いますが…


もっと、人の本質的な「愛」のことです。



そういう漠然とした空気感の中で、「愛」を自由に見つめる時間を、探す時間を、時には一人で、静寂の中で、設けてみてください。




悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。


がんばれ。

こんにちは。

いかがお過ごしですか?




みなさんは、人との繋がりを通して、何を得ていますか?


もしかしたら、何かを失っていますか?




「会話」をしている人たちを、当人同士以外の第三者として冷静に見ていると…



目の前で並べられる相手の口から発せられる「言葉」に対して、無意識に「評価」を下している人が、とても多い気がします。



それはまるで、「善」、「悪」の枠に、必ず当てはめなければならないように仕向けられているかのように、私には見えます。



何かに対して、「答え」を出すことが目的になってしまっていて、「過程」がまるでスッポリと消えてしまったかのような違和感があります。



そして、そのような癖がある人は、人とのコミュニケーションを取る上で、何かと「問題を起こしやすかったり、その人自体が、問題視されやすい傾向にある」ように思えます。



おそらく、そのような傾向にある人は、「尊重されなかった過去の傷、痛み」があるのではないでしょうか?



答えを急かされ、経過を無視されてきた、寂しい傷が。



そのような人の多くが持つ傾向として、本人が、その傷に「気づいている」ことが多いのも特徴です。



「傷」というのは、「コンプレックス」と言い換えても差し支えないかと思います。



気づいていながら、どうしてもその傷と向き合えずにいるのは、いつも、その傷のせいで人から非難されたり、嫌がられたことがあるのをわかっているからです。


それが癖、習慣になり、その傷のせいにして、自分が人を困らせたり、傷つけたりすることを、知らず知らずのうちに肯定してしまうようになることもあります。



それは、傷と「自分自身」が「同化」してしまっているのです。



傷を怖がらず、ちゃんと、心の目を開いて、じっと見つめてください。


その傷は、とても深く、大きく、自分の中でのさばっているように思えるかもしれないけれど、それは、今の自分の一部分です。



そこから目を背けて、自分の中の傷に自分を支配されてしまったら、それはいつか、「自分自身」になってしまうかもしれません。



自分の傷、コンプレックスに飲み込まれてしまって、いいのですか?



それは、


「自分のことを愛せない自分として、生きる」


ということです。



それが嫌なら、傷を飲み込む強さを、自分につける必要があると、私は思います。



そして、人の傷、コンプレックスをあざ笑ったり、そのせいで苦しんだり、悲しんだり、一生懸命もがいている人を憎んだり、馬鹿にしたり、嫌ったり、そんな風にしか考えられないとしたら、その人の中にも、同じ傷が付いているはずです。


相手を通して、自分の傷と向き合ってください。



人の痛みを、自分の痛みと気づいた時から、

少しずつ、景色が変わってゆくはずです。



傷のある人、コンプレックスを持った人とのコミュニケーションは、とてもエネルギーを要することだと、思います。



その時は、自分と、相手との境界線を明確にして、自分が相手の出している「負のエネルギー」に負けないように意識的に関わるようにしてください。



そこに引っ張られると、自分の中の「負のエネルギー」が相手の中の「負のエネルギー」と混ざってしまい、相手に対して「憎しみ、悲しみ、嫌悪感」などという「負のエネルギーの連鎖」から抜け出せなくなってしまいます。


そこを断ち切るという明確な意図を持つには、相手の言葉そのものに気を取られず、言葉の奥にある感情を感じることを意識的に繰り返し、探すことです。


そして、感情的にならず、冷静に、客観的に分析して、相手と今後も関わるのであれば、

それを癒してあげられるように関わることです。


憎しみが和らいで、向き合うことの大切さが次第にわかるようになるでしょう。



「コミュニケーション」とは、人と人とが、言葉を通じて、また、関わり合いを通じて、互いに理解し合う能力のことだと、私は思います。



それは、ノウハウだけに頼った、表面的な関わり合いではなく、心と心を通わせるために関わり合うこと。



嫌いな人、憎い人を「嫌う、憎む」エネルギーを、そのままそっくり、「許し、尊ぶ」というまっすぐなエネルギーに変えられた時、



自分を本当に愛せる人生が始まるはずです。



そのエネルギーが、嫌いだった人、憎かった人に届き、その人の心が動いた時、愛が繋がるはずです。



もちろん、いきなり、目指すところにたどり着けるわけではありません。


そのために必要な一番大切なことは、そのためにできることを自分なりに考え、一歩目を踏み出してみることです。

変える努力をすることです。



答えなんて、ありません。



自分の目の前に広がる世界が、自分の選んできたものです。



みんな、元々は、愛を持って生まれてきました。


それだけ、忘れずにいてください。




愛で溢れた豊かな未来を願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。


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架け橋

こんにちは。

いかがお過ごしですか?



「制限」された時、人は無意識に抵抗します。


それを表に出し主張する人もいれば、内に留める人もいますが、そこには、「理解し合えない」という抵抗感と、他者との間の隔たりが存在します。




しかし、

「尊重」された時、人は、無意識に、心を緩めます。


その時、他者との間にある隔たりの前に、「理解」への「架け橋」が生まれます。



「尊重」を得られた時、その一度の経験が、人に「尊重」の存在を知らせます。



互いの隔たりへ、架け橋をかける、という術が存在したことを、その時、人は

「実体験」、「経験」

を元に学ぶことができます。



そして、別の機会に、別の場所、別の人との間で、それができるものか…と、模索してみたくなります。



その時、もしも、そこでは他者から「尊重」を得られなかったとしても、誰かから「尊重」を得られた時の「希望」を、大切にしてください。



そして、自分の中の「尊重する心」を育ててあげてください。



諦めずに、たとえその時は、自分だけであっても、人を尊重する姿勢でいてください。



その時存在する無理解は、決して「孤独」ではありません。



元々は人々が、生まれながらにして持っていながら、忘れてしまっている、とても大切なものです。


そして、今は忘れてしまっているだけ、気づいていないだけです。



それを、自分が人に広め、繋げてゆくことにのみ、専念してください。



「善」、「悪」の思考には、限りがあります。



互いを、「愛」で繋ぐ架け橋を、自分が先に与えられる人でいてください。



そのような人を育てられる人で在ってください。



「尊重」は、人に無理強いをして、奪い取るようなものではありません。



互いを尊び、慈しむ心が、無意識の内に与え合っているような、それは、本当にささやかで、静かな感情です。



「尊重」を訴える人が、本当の意味での「尊重」に気づいてくれますように。



悲しむ人が、一人でも減ってくれますように。


今日も願います。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。

思考の産物

こんにちは。

いかがお過ごしですか?



みなさんは、「自分の思考の癖」に気づいていますか?



みなさんは、「自分自身」について、どれだけ知っていますか?理解していますか?




自分が日々抱いている感情というのは、自分自身が自覚し、その傾向を分析して、理由や、対策を考えて意識的に変えていってあげれば、いかようにも変えることができます。



自分が、「不満」ばかり抱きやすいのか。


「幸せ」だと思って日々生きられているのか。



そのような漠然とした「感情」は、何となくわかっていると思います。


けれど、



もし、不満に偏っている人ならば、



「なぜ不満なのか。」

「何に対して不満を抱いているのか。」


「どうしたら、不満を持たずに生きられるのか。」


そこに、意識を向けてあげてください。



不満、不幸を認知すること自体はできても、それを改善するためには、「思考の癖」を見直す必要があります。



あるものごとに対して思いを巡らせる時、そこから抱く印象や、自分自身が受ける影響は、ほとんどが、「自分自身の思考の産物」です。


言い換えれば、


「自分のイメージ」次第で、自分の「感情」というのは、いかようにも変化するということです。


そして、自分の「感情」の積み重ねが、自分の「思考の傾向」に繋がっています。



その「思考」の積み重ねの末に広がる世界が、自分の生きてゆく世界、目の前に広がる世界になってゆきます。



誰かや、何かに対して、自分の思い描いた通りでない時、人は、不満を抱きやすいかもしれません。



けれど、このブログの記事の中でもお話をしたことがあるように、自分以外の人の思考を完全に理解することは、不可能です。



自分の思考だけしか、人は知ることができません。


ですから、他者の思考というのは、ほとんどが、推測でなされています。



その推測をする段階で、「負の感情」に偏れば、世の中は「負の大きな世界」となるわけです。



自分が、世の中を暗くしてしまっている、と言っても過言ではないかもしれません。



どうせ生きるなら、


「幸せに生きたい」


そうは、思いませんか?



「不幸せに生きたい」

そのような人は、きっと、一人もいないと思います。



自分を幸せにしてあげられるのも、不幸せにしてしまうのも、実は、全て、「自分自身」です。



「習慣」というのは怖いもので、ずっと一つの方法しか選ばずにいると、他の選択肢というのが、まるで最初からなかったかのように、自分を制限されているかのように、見えない檻の中に閉じ込められているかのように、身動きが取れなくなってしまうことがあります。


でも、その見えない檻は、自分が作り出した産物でしかありません。



自分の力を、もっと信じてあげてください。



「自分はちっぽけな人間だから。」


「自分には、なんの力もないから。」


「自分は弱虫だから。」



そんな風に、思わないであげてください。

大切な自分自身のために、まず、自分自身を、救ってあげてください。



世の中は、自分の心の在り方一つで、どのようにも映ります。


自分の中の「愛」を信じてください。



みなさんの目の前に広がる世界が、愛に溢れ、希望に輝いてくれることを、今日も願います。



そして、悲しむ人が、一人でも減ってくれますように。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。


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小児性愛者

こんにちは。

いかがお過ごしですか?




ペドフィリア」という言葉をご存知ですか?



ペドフィリア」とは、幼児・小児(一般的に10歳以下)を対象とした性愛、性的嗜好のことを指すそうです。



「医学的疾患(性嗜好障害)を指して使われるが、一般に障害とまでは言えない小児への性的嗜好全般を指す場合もある。」



と、精神医学上はされているそうです。



「医学」というものは、原因と結果から「病気」を導き出すための学術だと、私は思います。



医学そのものを否定しているわけではありません。



(いつも、自分で記事を書きながら思うことですが…

自分の思想を述べる時に、いろいろな側面や可能性を考え、自分をへりくだって補足を加えているのは、私の「警戒心」が異常なまでに強いせいだと思います。


ですから、ご理解いただける方にとっては、不要なくだりであるかもしれませんが、万一の場合を考えてのものである、と柔軟に受け流していただけたら幸いです。)



現代社会は、「結果主義」の傾向にあります。


目に見える「成果」により、その「過程」までもが美化されることも往々にしてあります。


しかし、偉大な成果を成した人が、必ずしも「人間的に優れた人」であるとは限らないでしょう。



そこに目を向ける人や、身近な場所で疑問に思う人が増えているからこそ、昨今、主にスポーツ界等で「組織」の問題が浮き彫りになることが増えているのだと思います。



つまり、「過程」「源」に目を向け、ものごとの質を考える必要のある、社会なのではないでしょうか?



今日の本題は、「ペドフィリア」と呼ばれる「小児性愛者」が、幼児教育の場に潜む危険性についてです。



私の考えは、「過程」そのものを見つめ、そこをより良く改善してゆく「願い」を込めて、常に働いています。

そう在るために、日頃の思考を巡らせています。



時には、読んでいただく方に、誤解を与えてしまうかもしれません。



世の中のものごとは、「順番」や、「思考の向き」を変えるだけで、全く逆に作用する可能性のあることばかりだからです。



ですから、表面的な言葉そのものではなく、言葉の順序や、込められた思いを感じられるように読んでいただくと、伝わってくるものを捉えていただけるかもしれません。




話が脱線してばかりですね…(笑)

申し訳ありません。



精神医学上、「小児性愛者」と分類される人が、「なぜ」、生まれるのか。



そこに問題があると、私は思います。



小児性愛者」と、断定することを「結果」として排除、隔離することでとどまっていては、改善は見込めないと。



小児性愛者」になった過程には、自分が認識できている記憶、そして、認識できていない可能性のある記憶の中に、「傷」「痛み」があるはずです。


そこを探し、「思考の歪み」を直してあげれば、必ず、直るはずなのです。



しかし、医学では、そこにまで及びません。



つまり、それは、「本人の力」でしか、解決できないものなのです。



なぜ、小児性愛が問題なのか…

一般的に、わかりやすい理由を述べるなら、



未成年、或いは、幼児に対して、性的虐待や、性的暴行を行うことがどうして罪に当たるか、それは、



身体的な点から考えれば、未発達の段階の性器やそれ以外の場所に成人の「圧力」が掛かることで、目に見える「傷」を付けてしまう可能性が高いから。



そして、精神的な点から考えれば、これから先、未来のある人たちに対して、彼らの存在、意志を「尊重」せず、目には見えない「傷」を付けてしまう可能性が高いからです。


「性」というものは、それだけ、人間の「傷」に直結する、重みのあるものです。



そのありとあらゆる「負の可能性」を無視して、実行すれば、罪に当たるのは、当然のことです。


そして、その罪を犯さないためには、「自分自身の傷、痛み」をじっと見つめることが何よりも大切です。



自分の傷から目を背けているから、他者に与えるであろう傷からも、目を背けてしまうのです。



自分の力で直せることを、そうすることから目を背けた結果にあるものが、「精神の病気」と診断される可能性が高いと、考える必要があると、私は思います。



可能性が高い、とあえて補足したのは、「性別」に関わるものも、持って生まれたものではなく、精神の「障害」と分類されてしまうことがあるからです。



これについては、今日はあえて言及しませんが、全てではないことを、補足させていただきます。



*「治す」ではなく、「直す」という漢字をあえて用いて表現しました。誤字ではありませんので、ご安心ください。(笑)





最後に。



私は、自分が他者に対して持つ危険性という点から見て、ほぼ100パーセントに近い確率で、自身を信頼しています。


断言しても構わないかもしれません。



ですから、私の主張する考え方を理解いただける方も、そうである可能性が高いと思います。


なぜなら、私は、今の思考に至るまでの過程で、誰かを師と仰いだり、何かの思想に深く傾倒したりしたことがありません。


しかし、逆に言えば、宗教を含めて、様々な思考法にはある共通点があり、大元に込められているであろう意図を汲み取ることができます。


それを言葉でまとめたものが、私にとっては、「愛」でした。


そして、それは、今の段階で、私の知る限り、思う限りでは、根底でみな、繋がっていました。



ですから、私の思考をご理解いただける方がいたら、もしくは、言っている言葉の意味が何となくわかるという方がいたら、それは、私たちが同じ方向を目指し、同じものを望んでいる可能性が高いはずです。



それぞれの場所から、その「願い」を放ち続け、人々を同じ方向に導いてゆくことができるかもしれません。


力を合わせることができれば、やがて、社会の変化を生み出せるかもしれません。



あまり壮大な話になると、リアリティがなくなり、それは、想像力の育たぬ現代社会では、「拒絶」や「排除」に繋がる危険性があります。



もっと、現実的な言葉に置き換えるなら、


「優しい人、柔軟な人、愛に溢れた人」は、社会に埋もれ、自分を守るために、ひっそりと息を潜めているかのように、暮らしているかもしれません。


それは、人を「尊重」しているからです。


そして、「尊重を全ての人ができるわけではない」と、現実を見つめているからです。


時には、「集団意識」に攻撃されてしまうリスクを知っているからです。



それもまた、今の時点では、事実です。



だから、いきなり大きなことを成し遂げようなど、しなくていいのです。



自分の生活の中で、細やかな人との関わり合いの中に、「愛」を込められる自分でいてください。


傷を与えられることがあっても、傷を与えることのない姿勢を貫いてください。


そして、いつでも、「いのち」を最優先に。


危険からは、すぐにでも、逃げ出してください。


なりふり構わず、逃げてください。



そして、生きてください。

生かしてください。



ひとりぼっちで心を痛めたり、悲しんだり、社会を嘆いたり、世の中を憂いたり、そのようなことに自分の清らかさを使わないでください。


もっと、その清らかさを強く育て、温かい感情を大切に守り、流してゆくための勇気を、見つめ、育ててください。



その思いがやがて、大きな社会の変化を生み出します。


私は、そう信じています。




長くなりました。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。

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宇宙

こんにちは。

いかがお過ごしですか?



今日は、少し趣を変えて、記事を書き進めてゆこうと思います。



童話を読むような気持ちで、読んでいただいて、構いません。



ノンフィクション、架空の出来事、と思っていただいても構いません。(笑)



しかし、


「もし、本当にそうだったとしたら?」



と、全てを最初から「否定」せず、幼い頃に、不思議に思っていたことに対して、もし誰かが、こんな風に自分に話して聞かせてくれたとしたら…



それはまるで、

「サンタクロースが、本当にいると信じていた頃の自分」

のような気持ちを思い出し、読んでいただけたら、幸いです。




☆宇宙☆


「宇宙」がもし、何らかの意図をもって、私たちを作り出したのだとしたら…



自分自身の清らかさを、全身全霊で信じたかった「宇宙」は、その願いと、その結果に広がる世界を信じ、私たちを、自分の目から見えるように、自分と切り離して、「人間」の形にして、生み出しました。



しかし、「宇宙」がまだ気づくことのできなかった、自分自身の中に隠されていた、「悪意」のかけら、原石のようなものがありました。



それは、最初からあったものかもしれませんし、時間の経過、環境の変化と共に生まれたものかもしれません。


どちらであったかは、誰にもわかりません。



けれど、それは、時間の経過、また、その経過の中での、ほんの僅かな、「宇宙自身」にも気づけない変化と共に、少しずつ広がってゆきました。



それを見せられる度に、「宇宙」は、傷つき、苦しみ、悲しくなりました。



自分の中に、そのような醜いところが生まれていたことに、気づいていなかったからです。

そして、その醜いところが、知らず知らず、広がってしまうことを知らなかったからです。



それでも、私たち「人類」が絶えることなく、今日まで生み出され続けてきたのは、僅かであっても、望みのある限り、「宇宙」が、自分自身が清らかであることを信じる気持ちを諦めずにいてくれたからでしょう。



私たちは、その気持ちに応えるために、生まれ、生きています。



「宇宙」の願いを聞き入れ、叶え、励まし、未来へ向かって、その姿が「愛」に溢れた清らかなものであることを、証明してみせるために、生まれ、生かされています。



だから、自分自身も、「宇宙」と同じ気持ちをいつでも忘れないように、「一生」という流れの中で、「愛」に溢れた、清らかなものを、見抜き、選び、信じ、育て、繋ぐ。




一人一人が、自分自身を、「小さな宇宙」そのものとして、生き抜く。



その一人一人の小さないのちの輝きが、「宇宙」の輝きを作り、やがて、証明してみせてあげるために、全てのいのちがあります。



だから、元々、望む世界を作り出せる、と信じていた「宇宙」のかけらで、私たちはできています。



それは、きっと、「愛」でできています。



「宇宙」の願いは、私たち一人一人が本来、持って生まれてきた願いです。



そして、その願いを叶えることが、私たちが存在する理由です。



叶えるために、どう在るか、どう生きるか、私たちは、常に、それを目指して、生きてみませんか?



綺麗なものが、汚れたものを見捨て、切り離すことでは、解決しません。



全てを合わせて、一つである以上、その方法は、最初から選択肢にはありません。



私は、そんな風に、思います。



私から、みなさんへの問題です。


「あなたなら、どうしますか?」





愛で溢れた豊かな未来を願います。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。



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