「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。


みなさん、こんにちは。

いかが、お過ごしですか?





「愛」そのものとして、常に「在る」。



そんな生き方というのは、決して、誰にも恥じない、何の罪も犯さない、完璧である…そういう意味ではありません。



少なくとも、「性愛説」を提唱していても、私自身、そんな風に完璧な生き方をしてきたわけではありません。



嫌いな人も、苦手な人もいます。

喧嘩もします。



それでも、今は思います。



完全ではなく、時には間違えたとしても、更なる「愛」をもって生きる姿勢で在れば、それでいいのではないか、と。



人は、神ではないから。



人は、俗物です。



「生きている」ということは、「学んでいる」ということです。



ですから、時に間違いもするし、悩みもするし、後悔もする。



それでも、その時その時、必ず、自分自身を省みて、自分の在り方を見つめ直す。



それが、「愛を思い出す」ための一歩一歩だと思います。



そうしてゆくと、だんだん、愛そのものが、そこここに溢れていることを感じられるようになってきます。



一度、「愛」に触れ、実際に「愛」を感じ、「愛」について悩み、「愛」の存在を身をもって理解すると、人は必ず、その感覚を取り戻します。



一度取り戻した「愛する」という感覚は、二度と、消えることはありません。



よく、男女間の情愛の成れの果てで、「愛が憎しみに変わる」と言われますが、それは違います。



それは、元々、「愛」だと思っていたものが、実は「愛」ではなかった、というだけのことです。




抽象的な表現で伝わりにくいかもしれませんが、みなさんに、忘れずにいてほしいことがあります。



「愛」の対極には、何も存在しません。



ですから、愛だと思っていたものが、対極と思われる何かに変わった時点で、それは、最初から愛ではなかったことが証明されます。




「愛」は、全てを含みながら、何ものにも属さないものです。



「真の愛」を表現する言葉は、一つもありません。



誰も、「愛」について、語ることはできません。



「愛」は、じっくり、自分自身と対話し、自己を突き詰めてゆく中で、ずっと、自分自身の片隅で縮こまっていた何かが、実は、「愛」であったのだと、気づいた瞬間から、次第に取り戻せるものです。



ずっとそこにあって、その存在を、実はわかっていたのに、気づかない振りをしようとしてきたもの。



世間では、「良心」と呼ばれたりもしますが、それよりももっと、微かで、奥深くにある自分自身。



きっと、あなたにも、経験があるはずです。



「これでいいのだろうか。」


と、見えない何かに問いかけられる瞬間。



見えない何かが、自分の中に微かにあって、でも、次の瞬間、すっと消えて、忘れてしまうような瞬間。



それほどまでに、自分の奥深くに、そっとしまい込んだもの…それが、あなたの「愛」です。




言葉にする必要はありません。



誰かに、行動や、態度で示す必要も、ありません。



それを探し、取り戻すだけで、全てが変わってゆきます。



自分を見つめて、「愛のありか」を追求してゆくだけで、全てが変わってゆくようにできているのです。



だって、みんな自身が、「愛そのもの」として、この世に生まれてきたのだから。



それは、「善」、「悪」の概念には当てはまりません。




どちらかに当てはまることはなくて、でも、どちらをも許し、癒し、人と人とのわだかまりを優しくほどいてくれるもの。



全員が、等しく持っているもの。




差別も、偏見も、国境も、人種も、性別も、年齢も、何一つ問題にはならない。



全ての人が、「愛であることを思い出す。」



「性愛説」



これが、世の人々の救いとなること。




みんなが、自分の中に眠らせ、閉じ込めた、「愛」を見つけること。取り戻すこと。




それこそが、今の、私の夢です。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。


心から、感謝致します。