「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

アラーム

こんにちは。

いかがお過ごしですか?



人と会話をしていて、ふとしたきっかけで、イラッとすることがありますよね?



これは、主に、相手の意見に理解を示せない…または、受け入れられない、互いに分かり合えない、という場面で感じることが多いでしょう。



そのような場面で生まれる「苛立ち」は、エネルギーとして他者に伝わります。



そのエネルギーが、往々にして広がり、不快な雰囲気を作り出します。



誰かと会話をしていて、自分がもしも相手の言葉から、過去の経験や、自分自身のコンプレックスなどの「キズ」の疼きを感じて、イラッとしてしまったら…もしくは、他者の「キズ」に触れてしまい、イラッとさせてしまったら、




自分の心の中で、「アラーム」を鳴らすことを、本日はご提案させていただきます。(笑)



「ピピピッ」



…「あ、きました。」



という具合に、です。(笑)



「あ、きました。」


「イライラしてきました。」



というタイミングは、ほぼ苛立ちに飲み込まれるタイミングであるはずですが、そこで意識的に心の中でアラーム音を鳴らすことを習慣づけるようにすれば、アラーム音に気づけた自分に少し安堵することができるのではないでしょうか?



口に出して言ってしまったら、相手は何のことかわからないので、からかわれていると思い、余計に感情を逆なでしてしまい兼ねませんので、危険です。


顔にも、出さないようにするのが、無難です。


必ず、心の中だけで、実行してくださいね?



できれば、気の置けない友人や、家族を相手に始めは慣れてゆくのが好ましいと思います。


その時には、相手に事情を説明しておいて、一緒に楽しみながら始めてみるのもいいかもしれません。




「ピピピッ」


のアラーム音では退屈で、集中できないようでしたら、音を変えて、ご自分の好きな音楽のワンフレーズや、効果音など、いろいろ工夫してみるのも面白いかもしれません。



いずれにしろ、不快なエネルギーに包まれている自分の、その状態を把握する練習になるはずです。



エネルギーの状態を把握できれば、自分を客観視することができ、ある状態の自分自身を俯瞰し、切り抜ける術になり得るはずです。



慣れてきたら、他者が発しているエネルギーの質や、その源にあるであろう「感情」にも気づいてあげられるようになると思います。


もちろん、その際にも、アラーム音は、あくまでも心の中だけで鳴らしてくださいね?(笑)




そうすることによって、感情を冷静に分析しながら、コントロールすることも夢ではなくなります。



他者の発するエネルギーに飲み込まれたり、巻き込まれたりすることによって、余計なエネルギーを消耗する必要も軽減でき、また、「愛」を示すための自分自身の心の余裕も徐々に生まれるでしょう。



自分の心に付いている「キズ」の疼き方や、そこから発生しているであろう「怒り」や「悲しみ」のような負の感情への認知を生むことは、人格形成や、他者との柔軟なコミュニケーションを生む上で、何より欠かすことのできないことです。



そのようにして、自分自身を育んでいくことによって、自分に対する視野が広がってゆきます。


そしてそれは、ゆくゆくは、他者に対する視野を広げてゆくことに繋がります。



視野を広く持つことができると、理解をしてあげられる幅が生まれます。



そして、他者との関わり合いの上で、不要な争いを避け、前向きな「和解」への窓口が拓けて行けるでしょう。(^-^)



その過程で育ってゆくのが、全ての人に対する「愛」です。



必ず、苦手な人との関係も改善されてゆくはずです。



できない内に、無理をして、嫌いな人、エネルギーを異常に引っ張られるような人と関わることは、可能な限り避けるのが良いと思います。


何でも、出来そうなところから、コツコツと、大切に初めてゆくことが、上達への近道です。(笑)



是非、お試しになってみてください。(^-^)



私も、練習中であります。(笑)




ただし、上記のような方法はあくまでも症状の軽い方向けです。


過去の経験や、ご自身の「キズ」と向き合う上で、壮絶な体験を経て、深い痛手を負われた方も大勢いらっしゃるはずです。


医療機関の専門知識を持った方の指示による向き合い方が必要な場合が、もちろんあるはずですので、もしもそのような方にお読みいただき、不快な思いをさせてしまいましたら、申し訳ありませんでした。





悲しむ人が一人でも減ってくれますように、今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から、感謝致します。



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何気ない日常

こんにちは。

いかがお過ごしですか?



「何気ない日常」



その毎日が、知らず知らずの内に、ほんの少しずつ変化していっていることに、みなさんはどれだけ気付けているでしょうか?




私は、以前から…


「一週間」というサイクルが嫌いで、一度終わってくれないかな?と、真剣に思ってきました。(笑)


完全週休二日制で土日休みの方もいらっしゃるでしょうし、そうではない方もいらっしゃるでしょうけれど、私は、前者に当たります。



金曜日が終わると、土曜日…つまり休日がやってきます。


そして、土曜日が終わると、日曜日がやってきます。


しかし、日曜日が終わると、また月曜日がやってきます。(笑)



休日が終わると、新たな週が始まり、また五日間、仕事三昧となるわけです。



老いて、やがては労働が不可能な年齢になるまでは、ずっと、このように「一週間」という概念を感じながら生きてゆくのでしょう。



その繰り返しで生きていると、「日常」の変化には、気づきにくくなっているようですが、実際には、



日1日と、自分も、周りも変化しています。



生まれたばかりの赤ちゃんが、ハイハイを始め、つかまり立ちをするようになり、やがては、小学生になり、中学生になり…気付けば、この前生まれたかと思っていた子が、成人していたり。



「時間」は、常に流れています。



新たな一週間が訪れるのを止められないように、私たちから「時間」の流れを引き離すことはできません。



「大切な人」も、「愛する人」も、「憎い人」も、みんな、やがてはお別れをする人たちです。



限りのある、尊い人たちです。



そのことに、どれだけ気づけているでしょうか。



今日、目の前にいる人が、明日も変わらずに目の前にいてくれる保証など、どこにもありません。



今日、生きている自分が、明日も変わらずに生きていられる保証など、どこにもないのです。



「いつ死んでも構わない。」


「こんなに辛いなら、死んだ方がマシ。」



それなら、一度死んだつもりで、真逆の自分を生きてみるというのは、不可能でしょうか。


一度きりの人生で、どうせ捨てるつもりの命なら、その力を精一杯振り絞って、「生きてみる」ことだって、できるはずです。



今日の自分を愛せないなら、今日の誰かを愛せないなら、一旦全てをリセットして、生まれ変わった自分を、もう一度、生き直す。



「心」を酷く傷つけられて、生きているのが苦しくなってしまうほどの痛手を負ったとしても、



「自分には、まだ、いのちがある」



ということを思い出してください。



いのちがある限り、歩む景色は、いかようにも変えられます。



しかし、死んだら、全てが終わりです。



人の根底には、皆、「生きたい」という生命力が存在しています。



だから、人は呼吸をしようとするし、心臓は鼓動を刻んでいます。



幼くても、老いていても、皆、誰かにとっては、かけがえのないいのちです。



みんなが、生まれたばかりの時には、小さな小さな赤ちゃんであったし、みんなが、やがては、おじいちゃん、おばぁちゃんになります。



同じ時を刻む「同士」として、みんなが、「この世に生を受けた時から、やがては死を迎えるさだめの者たち」という、人間としての宿命を肌で感じて、生きてくれるように願います。



一番大元にある、その基本的な摂理を忘れずにいられたら、一時の争いや、様々な困難に感じられる出来事も、受け入れられるはずです。



大きな世界を見つめたら、身の回りの小さな世界を見つめる。



自分の周りの小さな環境で起こることに立ち止まったら、自分のいのちの源にある大きな摂理を思い出す。



そのようにして、「生きる」、「生かす」ということを、何気ない日常の中にいればいるほど、実感しながら、様々な出来事を乗り越えてほしいと、願っています。




人は皆、生まれたばかりの小さな握りこぶしの中に、「愛」を大切に握りしめて生まれてくるのだと思います。



だから、赤ちゃんは、ギューっと、その小さな手を握りしめているのではないかと、私には思えます。


成長と共に握りこぶしを開いてゆくのは、その愛を放つため。


決して、失うためではないはずです。



そして、放った愛を、広い集めて大切に自分の中に戻してゆくことが、「生きる」ことの意味だと思います。



生まれてすぐに、自分が放った愛が、誰にでもあるはずです。




最後に…

命の長さは、人によってそれぞれです。


しかし、記事の中でも申し上げた通り、命が終わる時がいつであるかなど、誰にもわかりません。


実際に、最期を迎える時までは、何が起こるかなどわかりません。


長かろうと、短かかろうと、尊さに大小などありません。


自分の命、そして、他者の命の尊さを、忘れずにいてください。





悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。


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未来のために。

こんにちは。

いかがお過ごしですか?



私の体験に基づいて考えると…


人の思考というものは、「推測」とそれによって起こり得る「結果」を行き来しているようです。



「仮定」と、その末に辿り着くであろう「結論」を行き来しています。



「現実」と、その先に、本当はそうであってほしいと願っている「理想」を行き来しています。




つまりは、「現在」と、その積み重ねによって迎えるであろう「未来」を行き来していると言えるでしょう。



そして、その二つを繋ぐ源に存在しているもの…すなわち、「根拠」と呼べるものにあたるのが、自身の体験に基づく「過去」です。



だから、今現在、問題を抱えている人たちには、「過去」の捉え方を修正する必要があるはずです。



「現在」を変え、「未来」を変えるためには、嫌が応にも、「過去」と向き合い、思考の歪みを修正し、「現在」への認知を変え、「未来」を形作る意識を育てることが必要なのです。



「過去」を見つめるのが、簡単なことではないことは、よくわかります。



どのような「きっかけ」により、人が変化してゆけるのかは、私にもわかりません。



けれど、私のような未熟者にも、絶対に、断定として言えることは、



「人を変えることはできない。」



ということです。



そして、誰しも、



「自分を変えることはできる。」



ということです。



「現在」と「未来」を繋ぐものは、


「今すぐにでも始められる日々の行い」


のみです。



一歩目を踏み出したら、きっと、二歩目を見つけられます。


二歩目を踏み出したら、きっと、三歩目を歩みたくなります。


一歩ずつ進んでゆくことで、次第に恐れは薄れてゆき、


「ここでやめたらもったいない。」


と、欲がでてきてくれます。


出てこなかったとしたら、自然とそう思える日まで、自分に、そのように言い聞かせてください。



「ここで立ち止まったら、また、元いた所に戻るんだ。」


「元いた所に戻れば、自分はまた、苦しまなきゃいけないんだ。」


「諦めたら、また、一から繰り返さなきゃいけないんだ。」



そうやって、山登りの時みたいに、自分の人生を生きてみてください。



自分との対話には、厳しさと、優しさをバランス良く保つように心掛けてくださいね(^-^)



自分を一番理解してあげられるのは、自分自身です。


味方になってくれるのも、自分自身です。



一番理解してくれるはずの人に理解してもらえないことほど、寂しいことはありません。



「自分」という人を、まずは、良くも悪くも攻略してください。



人を見るような感覚で、「自分」を眺めてみてください。


そして、「理想」は、他者にではなく、「自分」に当てはめてみてください。


今現在の自分に「できていること」と「できていないこと」が、よくわかるはずです。



「できていないこと」の中で一番簡単なことからできるようにしてみてください。



そして、それは、必ず、「愛」に基づいていることの中から選んで行なってください。



「愛」とは何か、漠然としかわからない人は、「自分と他者の命と心を守れる保証」のあることの中から選んで行なってみてください。




「野望」があり、立派な地位を望んでいる人や、財産を築き、将来的に名を成したいと思う方がもしもこれを読んでくださっているなら…




上記のような方法により、着実な地固めをして「未来」を築いてゆくことで、崩れることのない「人生」を送っていただけると、私は信じています。



具体的に何から行うか、何を成すか、どう行うか、その全ては、みなさんの自由です。



生意気な文調で言葉を重ね、申し訳ありません。


言葉に込める切なる願いを、受け取っていただけたら幸いです。




愛に溢れた豊かな未来を願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。


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腑に落ちる時

こんにちは。

いかがお過ごしですか?




人は、自分が実際に身をもって経験したことしか、知り得ません。


それ以外のことというのは、あくまでも「想像」によるものです。



以前どこかで聞いたことがあります。

ザックリとした表現で申し訳ないのですが…



人は、たとえば、ある人の身の上相談にのっているような場面では、その人の話を、自分が実際に経験した出来事に置き換えて話を聞いているそうです。



ですから、よく似た境遇であったり、生い立ちであったり、趣味、嗜好が似ている人には、「共感」しやすいのでしょう。



自分の体験に基づいて思考しやすい、という現象が起こりやすくなるためだと推測できます。



反対に、共通の経験が乏しい相手に対しては、それが難しくなるため、「共感」することが困難になります。



それを人は、往々にして、


「気が合わない」


と、判断します。



しかし、実際には、共通の体験が乏しいだけで、思考の方法は、その先を見てゆかなければわからないのではないでしょうか?



これまでのやり取りの中では、「共通項」を見つけるのが難しかったとしても、今後、共通の経験をしてゆく中で互いに感じてゆくことは、理解できるかもしれない。



人と関わり合いを持つ上で、「先入観」や「偏見」というものは、とても芽生えやすい感情であると思います。



しかし、


「今、目の前にいる人は、過去に自分に対して嫌な思いをさせた人とは、違う人だ」


と、記憶をその都度刷新してゆく心掛けがとても大切です。



自分の目の前にいる人に対して、過去の自分の先入観や偏見の言いなりになるのではなく、「今」をしっかり生きる。



その気持ちを、最初は意識的に自分に教えるという作業が大事ではないでしょうか?



そして、それは、自分に対して、過去に何かしらのわだかまりを与えた人に対しても、同様です。



そのために、私たちには「時間」という概念が存在するのだと思います。



「自分」も「他者」も、同じように「時間」という概念に基づいて生きています。



その中で、目には見えなくても、日々、少しずつ変化しています。


ひとところにとどめて、可能性を奪うことなく、与え合ってゆくことが、できるのではないでしょうか。




「過去」にとらわれていては、「今」は生きられません。


「今」を変えなければ、「未来」は変わりません。



世に出回っている、「マーフィーの法則」も、「人を動かす」も、数々の宗教の教えも、「引き寄せの法則」も、自己啓発本も、

実は、みんな同じ理論に基づいて語り継がれています。



とても、簡単で、シンプルなことを、様々に言い換えて述べられています。



「今を生きてください。」


「幸せな人生を生きてください。」


「幸せな人生を生かしてあげてください。」



ただ、それだけです。


そのための思考の方法を、様々な場面を用いたり、いろいろな手法を使って、何とかして人々を導くために、言葉を駆使して説明しています。




難しい言葉を使う必要も、様々な趣向を凝らすことも、本当は必要がないけれど、自分にとって、一番これがいいだろう…という方法で、「個性に基づいて」、精一杯、私たちに残してくれているのだろうと、私は思います。



そのような言葉の数々は、実際に存在を確認して、頭の片隅に入れておくだけで価値を持ちます。


その知識が、実際に目の前の経験や、思考の行き先と合致した時、本当に「腑に落ちる」時が、必ずきます。



ですから、「先入観」や「偏見」を持たず、何でもいいから、「自分のためになるであろう情報」を選別して、自分に与えてあげてください。



不必要な情報が、世の中には溢れています。



「意識高い系」と言っては、他者の向上心をあざ笑う人が沢山います。



けれど、自分を育てることの、何が恥ずかしいのでしょうか?



何がいけないのでしょうか?



私は、自分を高めようと努力している人のひたむきさが、何より好きです。



転んで、痛くても、歯を食いしばって泣きながら立ち上がる子供の姿に、涙が出るほど胸を打たれます。


「強いね。偉いね。」


そうやって、抱きしめてあげたくなります。



大人になっても、同じです。



そうやって生きようとしている人のことは、何が何でも救いたい。


誰も周りに褒めてくれる人がいないなら、自分で、



「よく頑張った。偉かった。」



そうやって、自分で自分を支えてゆくことができる方法もあると、気づいてほしい…



そのための、思いを届けています。



たった一人でも、構わないのです。



本当に必要としてくれる人に、私の思いが届きますように。



今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。


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警戒心

こんにちは。

いかがお過ごしですか?




これまであまり関わり合いのなかった人、あまりよく知らない人が、何か、金品をくれると言ったら、あなたはどうしますか?



あるいは、これから、仕事でお世話になる人や、今後関わり合いを持ってゆくかもしれない人が、「結果」を前に、過剰な金品を与えようとしてきたら…




あなたは、どうしますか?




「甘い言葉には裏がある」



と、いいます。



何かしらの金品の提示を目の前にされた時、人は、



「この人は、いい人だ。」


「この人は、すごい人だ。」


と、多くの人が思うでしょう。



しかし、冷静に考えてみてください。



なぜ、何の関係もない、見ず知らずの人に、金品を与えられるのでしょう。



何かの行いに対する対価であるわけでもない、「愛情」や「信頼」という関係を互いに形成する前の段階での金品の供与には、ほとんどの場合、裏があります。



自分自身の能力や学歴、容姿などの「自分の外側」への過大評価が、時に人から「冷静で的確な判断」を奪ってしまう時があります。



しかし、実際には、「対価」、「報酬」というものは、何かしらの行いをした後に、その行いの結果いかんによって得られるものです。


正当な対価、正当な報酬は、ある行動に対する実績に左右されるものであるはずです。



それを見越して与えられる対価、報酬は、恐ろしいものであると、私は思います。



たとえば「年俸制」のように、過去の実績を踏まえて、今後の行いに対して「見越す」ということはあり得るとしても、自分に対して何の根拠もない理由により、行いの前段階で金品を供与するということは、



「過剰な期待を強いられる可能性がある」


「無謀な願望を押し付けられる可能性がある」


と、判断することが適切であると、思います。



人は、他者に対して「理想的な在り方」を求める傾向があります。


本来であれば、「自分」が行うべきことを、「他者」に求めてしまいがちです。


そして、それを実際に自分が行おうとしてみて初めて、その在り方の難しさに気づきます。


「警戒心」もまた、同様です。



自分が、実際にその立場に立ってみて初めて、「警戒心の甘さ」を知ることとなります。



「警戒心」を身につける、ということは、「理想的な自分として生きる」ということと同じように、日々の積み重ねと、意識を向上させる努力がなければ成し遂げられません。



他者を過大に評価しない。


自分を過大に評価しない。




「愛そのものである自分自身として生きる」


ということは、


「全てを自己責任として捉えて生きる」


ということでもあると思います。



人のせいにして、自分に非があった可能性には目をつむり、人を責めて、自分に言い訳をして生きることは、し続けていればいつか必ず、それが自分に「害」しかもたらしてはくれなかったことに気づく日が来るでしょう。



人と人が関わり合う時に、「目に見えるものの価値」をその関係の中で重要視する必要など、本当はありません。



そこに頼れば、それは、「依存」の関係を生んでしまうからです。



「依存」を相手にもたらすことによって、与えた側が満たされることを学んでしまえば、それは、「共依存」の関係になるしかなくなってしまうでしょう。



人が、一番欲しているものは、「理解」です。


表面的な理解ではなく、愛をもって、違いを受け入れる。


その上で成される「理解」は、人に安らぎと癒しを与えます。



それをまた別の場所でも行ってゆく。



それが「愛を繋いでゆく」ということだと、私は思います。



他者を理解するためには、様々な思考法と、工夫を凝らさなければなりません。


そして、その過程において、「安全性」と「危険性」をバランス良く育ててゆかねばなりません。



「自分」に対しても、「他者」に対しても、同じ熱量で、バランス良く、です。



それは、「柔軟な思考」を意識的に行うことの積み重ねによって、次第に身についてゆきます。



その積み重ねの中で、しっくりくる気づきを、次第に見つけてゆけるでしょう。



そこにはきっと、あなたの愛が隠れています。



大切な1日1日を、生きましょう。


自分も、人も、守れるように。



「警戒心」という観点においても、「人としての在り方」という観点においても、最初に始める時には、「リスク」に重きを置くことが好ましいかもしれません。



まずは、自分は「未熟」であるということを忘れずに。


決して、「未熟」であることを責める必要はありません。


今までは気づかなかった、知らなかったのだから、当然だ、と開き直るくらいでいいと思います。(笑)


でもそれは、「他者」に対しても同様に、です。



「未熟な自分」を「楽しみながら育ててゆこう」という想いを大切に。




悲しむ人が一人でも減ってくれますように、今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から感謝致します。


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葛藤

こんにちは。

いかがお過ごしですか?



私が日々、ブログに綴っている言葉は、読む人が読めば…


「当たり前のこと」


ばかりだと思います。(笑)



けれど、誰かにとって「当たり前のこと」を「当たり前」とは思えない人が、世の中には沢山います。



だから、「当たり前」だと考えられない人にも伝わるような言葉を用いて表現するように私なりに工夫しています。



多くの人にとって「当たり前」のことを、「当たり前」とは受け止められなくなってしまった様々な事情を、自分に想像できる限り巡らせて思考することを日々、忘れずに生きようと思っています。



ですから、苦しいな、悲しいな、寂しいな…と思いながら生きている人の「敵」にはなりたくありません。



「願い」って、尊いな…と、いつも思います。


「願うことによって」、自分が支えてもらっていることを実感します。



誤解を招いてしまうかもしれない表現ではありますが、世の中の人々の生きる「葛藤」が、私の心の奥の「芯」となるべく「願い」を抱かせてくれています。




心からの「感情」に触れた時、私は、生まれてきたことに感謝できます。



人間らしいって、こういうことなんだなぁと、改めて思います。



生きていることに感謝できて、生まれてきたことに意味を見つけられて、たとえそれが、人よりも短かったり、複雑だったり、事情のある命だったとしても、幸せを感じて、その命を全うしてほしいな、と思います。



人には、他人には計り知れない、様々な事情があります。



全ての人に、です。



誰にも理解されない、という苦しみが、より一層その人を頑なにしてゆきます。



でも、本当は、多かれ少なかれ、「みんな」が同じ思いを抱えて生きています。



だからこそ、自分が先に歩み寄ろう、寄り添おうとできたら、争いをする必要などなくなるのでしょうね。



そんな日を、みんなが生きられたら、どんなに幸せだろうか。



私は、今日も、そんな風に願います。




悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から感謝致します。




☆青空が恋しいです。(笑)

今日も、過去の写真を使わせていただきます。☆☆☆

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キズ

こんにちは。

いかがお過ごしですか?



人は誰しも、多かれ少なかれ、心に傷を抱えて生きているものではないでしょうか。



付けられた傷に対して、そこをずっと見つめていたら、やがては、憎しみと悲しみによって、自分自身が傷と同化していったり、傷に飲み込まれてしまい兼ねないでしょう。



その時、その人は…

自分に傷を負わせた人と同じか、あるいはそれ以上の傷を人に負わせてしまい兼ねません。



「傷つけられた自分」


「傷ついた自分」



を客観的に見つめてみてください。



そして、傷つけた相手の心中を察してみてください。


様々な可能性を想像してみてください。



自分にとって都合よく解釈すれば、自ずと相手を非難することになるでしょう。


しかし、自分から見た人の心中、その人が置かれた環境というものは、全てが「推察」で成り立っています。



だから、その次には、必ず自分を振り返りましょう。



相手の心中を推し量って推察する時、一瞬、自分の非を認めざるを得ない瞬間が訪れるはずです。



その瞬間を逃さずに、グッと意識を高めて、辛さや理不尽さを外に追い出して、自分の「真意」を見極めてみてください。



自分の「言い訳」を、見逃さないでください。




自分が、相手につけたかもしれない傷の可能性、もしくは、相手にその行為を犯させた自分の隙が、あるはずです。




「偽善」も、少なからず、人に影響を及ぼすでしょう。




真剣に生きて、真剣な思いを感じて、真剣に人に思いを伝え続けていけば、そのような場面は、必ず減ってゆきます。



なんとなく生きて、なんとなく感じて、なんとなく上部だけの思いしか伝えずに人と関われば、人も、自分に同じようにしか接してはくれないでしょう。




そして、真剣に生きるようになれば、相手の出方に関わらず、自分がどう接したかに集中することができるようになり、自ずと、結果にこだわることなく、



「自分は、精一杯やった。」



と、納得できるはずです。



「真剣に」生きるためには、全ての感情に対し、まっすぐに向き合わなくてはなりません。



「喜怒哀楽」を、まっすぐに感じなくてはなりません。



どれかに偏った時には、その感情を感じきり、一つ一つを、しっかり受け止め、噛み砕いて「自分」の糧としてゆく。



その作業が、とても大切です。



一つ一つの感情を、見逃さず、目を背けず、感じきり、自分の一部として、自分を大切に育ててゆく。



それが、


「執着を手放す」


という作業ではないでしょうか?



「手放す」


ということを、文字通り、「無かったものとして捨て去る」ということのように捉えてしまいがちですが…



人の記憶力というものは、決して、都合よくできていません。



既に体験してしまったものを、初めからなかったものとして葬り去ることなど、できはしないでしょう。



「執着心」というものは、本来であれば抱きたくない、という場面にこそ生まれるものであると、私は思います。



だから、真逆の方法を選ぶことに意味があります。



執着心を抱かざるを得ない感情を、ジッと見つめ、そこに自分に可能な限りの想像力と工夫、そして、愛を加えて感じ切ることが、「執着を手放す」ということではないでしょうか。



人間は、ロボットではありません。



そして、私たちは、「人間」なのです。




何のために、身に降りかかった出来事だったのでしょうか?



それは、私たちが自分の糧とすべき問題を含んでいたからでしょう。



一生懸命、生きましょう。



私も、そうします。



必ず、「愛を抱いて生まれてきた自分」を、思い出せるはずです。




ただし、これは、実際に自分が生活する環境の中だけで行ってください。



全く見ず知らずの人との関わり合いの場面においては、常に、最大の警戒心と、自己防衛、そして、他者防衛を忘れずにいてください。



過剰な期待や、願望は、時に人を過大に評価してしまい兼ねません。



その時、いのちと心が、危険にさらされてしまうかもしれません。



その危険性だけは、忘れずに生きてください。





悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。





最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。

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