「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

警戒心

こんにちは。

いかがお過ごしですか?




これまであまり関わり合いのなかった人、あまりよく知らない人が、何か、金品をくれると言ったら、あなたはどうしますか?



あるいは、これから、仕事でお世話になる人や、今後関わり合いを持ってゆくかもしれない人が、「結果」を前に、過剰な金品を与えようとしてきたら…




あなたは、どうしますか?




「甘い言葉には裏がある」



と、いいます。



何かしらの金品の提示を目の前にされた時、人は、



「この人は、いい人だ。」


「この人は、すごい人だ。」


と、多くの人が思うでしょう。



しかし、冷静に考えてみてください。



なぜ、何の関係もない、見ず知らずの人に、金品を与えられるのでしょう。



何かの行いに対する対価であるわけでもない、「愛情」や「信頼」という関係を互いに形成する前の段階での金品の供与には、ほとんどの場合、裏があります。



自分自身の能力や学歴、容姿などの「自分の外側」への過大評価が、時に人から「冷静で的確な判断」を奪ってしまう時があります。



しかし、実際には、「対価」、「報酬」というものは、何かしらの行いをした後に、その行いの結果いかんによって得られるものです。


正当な対価、正当な報酬は、ある行動に対する実績に左右されるものであるはずです。



それを見越して与えられる対価、報酬は、恐ろしいものであると、私は思います。



たとえば「年俸制」のように、過去の実績を踏まえて、今後の行いに対して「見越す」ということはあり得るとしても、自分に対して何の根拠もない理由により、行いの前段階で金品を供与するということは、



「過剰な期待を強いられる可能性がある」


「無謀な願望を押し付けられる可能性がある」


と、判断することが適切であると、思います。



人は、他者に対して「理想的な在り方」を求める傾向があります。


本来であれば、「自分」が行うべきことを、「他者」に求めてしまいがちです。


そして、それを実際に自分が行おうとしてみて初めて、その在り方の難しさに気づきます。


「警戒心」もまた、同様です。



自分が、実際にその立場に立ってみて初めて、「警戒心の甘さ」を知ることとなります。



「警戒心」を身につける、ということは、「理想的な自分として生きる」ということと同じように、日々の積み重ねと、意識を向上させる努力がなければ成し遂げられません。



他者を過大に評価しない。


自分を過大に評価しない。




「愛そのものである自分自身として生きる」


ということは、


「全てを自己責任として捉えて生きる」


ということでもあると思います。



人のせいにして、自分に非があった可能性には目をつむり、人を責めて、自分に言い訳をして生きることは、し続けていればいつか必ず、それが自分に「害」しかもたらしてはくれなかったことに気づく日が来るでしょう。



人と人が関わり合う時に、「目に見えるものの価値」をその関係の中で重要視する必要など、本当はありません。



そこに頼れば、それは、「依存」の関係を生んでしまうからです。



「依存」を相手にもたらすことによって、与えた側が満たされることを学んでしまえば、それは、「共依存」の関係になるしかなくなってしまうでしょう。



人が、一番欲しているものは、「理解」です。


表面的な理解ではなく、愛をもって、違いを受け入れる。


その上で成される「理解」は、人に安らぎと癒しを与えます。



それをまた別の場所でも行ってゆく。



それが「愛を繋いでゆく」ということだと、私は思います。



他者を理解するためには、様々な思考法と、工夫を凝らさなければなりません。


そして、その過程において、「安全性」と「危険性」をバランス良く育ててゆかねばなりません。



「自分」に対しても、「他者」に対しても、同じ熱量で、バランス良く、です。



それは、「柔軟な思考」を意識的に行うことの積み重ねによって、次第に身についてゆきます。



その積み重ねの中で、しっくりくる気づきを、次第に見つけてゆけるでしょう。



そこにはきっと、あなたの愛が隠れています。



大切な1日1日を、生きましょう。


自分も、人も、守れるように。



「警戒心」という観点においても、「人としての在り方」という観点においても、最初に始める時には、「リスク」に重きを置くことが好ましいかもしれません。



まずは、自分は「未熟」であるということを忘れずに。


決して、「未熟」であることを責める必要はありません。


今までは気づかなかった、知らなかったのだから、当然だ、と開き直るくらいでいいと思います。(笑)


でもそれは、「他者」に対しても同様に、です。



「未熟な自分」を「楽しみながら育ててゆこう」という想いを大切に。




悲しむ人が一人でも減ってくれますように、今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から感謝致します。


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