自己責任
こんにちは!
なぜか、自分で「やる」と決めたことなのに、時間の経過と共に、他力本願になっていったり、他者に責任転嫁したり…
人間というものは、身勝手な生き物でもありますよね?(笑)
気持ちはわからなくもないし、自分も、かつては、よくそのような不満を抱いたり、悩んだりして、必死に日々をこなしてきました。
しかし、「自分」という主軸をしっかりと見つめて生きられるようになった時、自分の中に知らず知らずの内に芽生える様々な対象への「依存心」の存在をはっきりと認識することができ、次第に、それらの不満が、「お門違い」であることに気づきました。
誰かに何かを「してもらうこと」
誰かに何かを「してあげること」
そのどちらも、同様に、私の中では「依存心」として認識しています。
そもそも、他者がいなければ、成り立たないことだからです。
何をするにしても、してもらうにしても、全て、自己責任に基づいて考えれば、
「自分で選んだ選択」
です。
結果に振り回され、他者を責めるのは、お門違いです。(笑)
だからこそ、選択肢を複数認識して、どの方法を選択するかの時点で、自分に全ての責任を課せるよう、しっかり言い聞かせる。
軽率な言動は、減らしてゆく努力を怠らない。
いつ何時も、しっかり、全力で、真摯に生きる。
その積み重ねに、必死で取り組む。
そうしてゆけば、次第に、他者を責める気持ちは薄れてゆきます。
結果をあくまでも自分の選んだ選択肢の「結果」として、受け止められるようになるでしょう。
自分も、他者も、尊重する気持ちが芽生えてゆくでしょう。
みんな、そもそもを、間違えているんだよ?
私は、一通り弱音を吐かれた後、散々愚痴を聞かされた後でも、たった一言でもいい…
一番最後に聞かせてくれる言葉が、自分を奮い立たせるための言葉であったり、弱気な自分を励ますための言葉であったり、他者を思いやる言葉であったり…
そんな人が、大好きです。
人は皆、自分の過ちに気づいている、と確信しています。
どれだけ無神経に見えても、素直じゃなくても、弱虫でも、格好悪くても、頑固なお年寄りでも、無知な人でも、みんなが、
「素直に生きたい。優しさを持っている自分に気づいてほしい。」
という願いを胸の奥に抱えて生きていると思っています。
だからこそ、自分自身にそれを許し、できる限り、自分の本心に忠実に生きてほしいと願っています。
頑なに自分を偽っている人を見ることが、切ないです。
誰にも、そんな風に自分を苦しめてほしくはないし、誰のことも憎んだり追い詰めたり、傷つけたりしてほしくはありません。
傷つけていい人なんて誰一人いないし、傷つけられていい人なんて、誰もいないはずだから。
自分が選んだ選択の結果、自分が苦しかったり、辛かったりするのなら、それは、自分のせいだった、そう認めてあげてください。
それを最初に受け入れることは、難しいことなのかもしれません。
でも、そうやって受け入れ、次に生かす。
次に似たような場面に直面した時、同じ過ちを繰り返さないように学んでゆく。
それに気づき、自分を導いてゆくためには、他者ではなく、何よりもまず、自分について、よく見つめて理解する。
自分を導いてゆくのは、自分自身で、自分の人生を生き抜いてあげられるのも、他の誰でもなく、自分であるということを、真剣に受け止める。
その意味を知ることで、人は、自分の一挙手一投足に全力を掛けることができるようになります。
一生懸命に生きている人を、人は決して、ないがしろにしたりできません。
必ず、同じように生きている人に出会います。(^-^)
現実に生きている世界で見つけられなかったとしても…
少なくとも、今、ここで出会うことができた「私」は、そういう人間です。
だから、私は、遠く離れた場所から、あなたをいつも応援しています。(笑)
気恥ずかしくなり、(笑)を付けてしまいましたが…
私も頑張ります。
みなさんも、それぞれの場所で頑張ってください。
悲しむ人が一人でも減ってくれますように、今日も願います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。(^-^)
長所vs短所
おはようございます(^-^)!
人には皆、得手、不得手…というものがあります。
つまり、得意なことがあれば、苦手なこともあります。
それは、表面的な技術の問題ではありません。
もっと本質的な、長所、短所があります。
みなさんは、自分の長所を、知っていますか?
履歴書に書くような、表面的な長所ではなく、もっと自分の本質的な良いところを、理解していますか?
自分の短所を、知っていますか?…
人が持つ本質的な長所、「魅力」とは、自分で思っている短所であることもあります。
自分が知っている自分の長所とは…
「人から見て、よく見えるであろう自分」
であることがあります。
しかし、もっと本質的な自分の長所とは、
「決して人から見たら今の時点ではよく見えていなかったとしても、自分が本当に好きだと思える自分自身」
であることがあります。
人は、意外と、自分自身について、あまりよくわかっていないということなんですね?
自分について思考を巡らせる時、サインは、自分の心が教えてくれます。
「モヤモヤ」
と
「スッキリ」
シンプルに言えば、こんな感じです。(笑)
人がそれに気付かせてくれることもあります。
「あなたは、意外と○○な人ですね。」
このように言われた時には、チャンス到来!と楽しみながら受け止めてみてください。
「この人は自分をわかっていない。」
そんな風に決めつけてしまうのは、非常に残念なことです。
自分には見えていない自分を、他者が教えてくれている…と、前向きに捉えてみましょう。
自分自身を、これまでの自分の既成概念で縛り付けたりせずに、もっと柔軟に、受け止めて変化する自由を与えてあげてください。
なぜ、今日のブログの記事の中で、長所、短所、と相反する二つを挙げたにも関わらず、長所の捉え方にばかり触れているのか…おわかりいただけるでしょうか?
これは、「わざと」です。(笑)
多くの人は、自分の欠点を見つめ、
「自分はダメな人間だ。」
「自分には、なんの力もない。」
そうやって自らを追い込み、イジメ、苛立ち、焦り、落ち込みます。
そんな時、そのような人は、他者に対しても同じことをしているはずです。
「あの人は嫌な奴だ。」
「あの人には、良いところなんて一つもない。」
そうやって、他者を責め、嫌い、苛立ち、関係をより悪化させるような日々を自ずと引き起こしてしまいます。
しかし、自分の長所、すなわち魅力を見つめ、そこを生かすように工夫してゆくと、自分の中から欠点は、少しずつ陰を潜めてゆきます。
自分の良いところを、伸ばしてあげられるようになると、人は、そんな風に生きてくれる自分自身を次第に認めてあげられるようになってゆきます。
その時には、自然と、欠点であったはずの場所を補ってゆく力も同時に培われてゆくのです。
「欠点をそのまま放置する」ようなことには、決してならないはずなので、そこは、不思議な感覚に一瞬とらわれるかもしれませんが…
「自分自身の成長」
であると、素直に受け止めてください。(笑)
これを自分の習慣にしてゆく時、同時に引き起こされることが、もう一つあります。
「他者を尊重する心の成長」
です。
これまで、どうしたって理解できなかった大嫌いな人の、良いところが、見えてきてしまうはずなのです。(笑)
自分の長所を見つめ、伸ばすことにより、自分が自分のために努力してあげると、それと同じことを他者との間でも、してあげられるようになります。
必ず、起こります。
その時に、
「あの人は嫌いな人だから、そんな風に考えたらいけない。」
そうやって、目を背ければ、おそらくまた、自分を嫌う日々を一から繰り返すことになります。
そこで勇気を出して、嫌いな人の良いところを見つけ出し、自分に対してしてあげられた努力と同じことを、他者に対してしてあげられた時、景色が一変するでしょう。
それを自分の習慣として、生きてゆくことで、「無償の愛」とは何か、真に理解することでしょう。
嫌いな人、苦手な人との距離感は、とても大切です。
人は全ての人と関わらなければならないわけではありません。
関わってはならない相手もいるはずです。
しかし、一瞬でも出会い、その存在を知ってしまった以上は、それもまた「縁」の一つです。
それならば、その「縁」を憎むようなことだけはしないでください。
関わる必要がなくとも、「許す」ことはできます。
その時にもしも、「時間」が必要だと思うのならば、「時間」に甘えてください。
自分の人生です。
他の誰かのためにあるのではなく、自分のためにだけ、あるのが「あなたの人生」です。
忘れないでくださいね?
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。
男性の狩猟本能
今日は、男性の「性」について、集合意識に惑わされているであろう、既成概念に、真っ向勝負を挑みたいと思います。(笑)
男性の性欲について、「浮気は男の甲斐性」という、過去からの言い伝えのような偏見について、私は、誤っていると、気づきました。
特定の人を愛する、という感情について、私はずっと、考えてきました。
人は、たった一人の人を愛し抜くことで、強くなれるし、本来の自分自身に繋がることができるようになると思います。
そこに介入してくるであろう「縁」という存在について、その理由に言及することは、今の段階で、私には不可能です。
しかし、恋愛という特別な縁を通して、人は深い学びを得ることができます。
その上で欠かせないのが、「信頼関係」です。
ところが、この信頼関係を築く上で、性を基準に、根本的な男女の違いを明らかにされてしまうことは、私にとって、非常に辛いことでした。
交際相手に、別の人が現れ、その人と性を交わし、今まであった縁に切れ目が生じる…
いわゆる「肉体的な浮気」と言えるでしょうか。
このような事実に直面した時、男性の多くは、男性の本能に言及する場合が多くあります。
「男には狩猟本能がある。」
これが、ターゲットとなる魅力的な女性を射止め、肉体関係へと繋がる理由にされる場面を、よく目にするものです。
今日の、私の気づきは、紛れもなく、ここにあります。
古代の男性が、狩猟に勤しんでいたのは、何故でしょうか?
その行為そのものに、刺激を受け、楽しんでいたでしょうか?
私は、そうは思いません。
古代、男性が命懸けで狩猟に勤しんでいたのは、ただただ一心に、愛する人のためであったのではないでしょうか。
愛する人が飢えずに済むように、愛する人の喜ぶ顔を見られるように、愛する人を養い、そして、守り抜くためであったのではないでしょうか。
そのような思いを、まるで男性が生まれ持った本能であるかのように偽って汚すような真似は、とても悲しいことだと思いました。
男性が女性を軽視しているとしたら、それは、女性が男性を軽視しているからです。
男性を本当の意味で、信頼できていないからです。
それは、逆もまた、然りです。
「命と、性を愛で繋ぐ。」
そこに、過去からの誤ったメッセージを介入させる必要はありません。
性も、命も、本来は等しく神聖なものです。
表面的な出来事にとらわれて、ものごとの本質を理解しようとはしないのが、人間というものです。
しかし、本来大切なことは、逆です。
ある出来事に関して思考する時に、最も必要なことは、ものごとの本質をとらえることです。
自分の目の前に現れた尊い縁に対し、どれだけの誠意をもって相手と向き合うか…
相手に欲するばかりではなく、自分が先に差し出すこと。
そして、自分が先に差し出したのなら、相手に見返りを求めないこと。
そこに、自分の成長への道が開かれます。
亡くなられた樹木希林さんについて、私の勝手な見解を述べさせていただきます。
多くの方は、おそらく私の意見には否定的なご意見を持たれるかと思いますが、あくまでも、一つの見解としてお許しいただけましたら幸いです。
おそらく彼女は、生涯をかけて、旦那様を心から愛されたのだと思います。
しかし、旦那様である内田裕也さんは、彼女の愛に怖気づいていたはずです。
あまりにも深い愛を前に立ちすくみ、別の女性との肉体関係に逃げたのだろうと、私は思います。
二人の夫婦としての在り方を、まるで美談のように話すテレビ番組に、私は、違和感を感じずにはいられませんでした。
愛を精一杯捧げてくれる人を前にした時、人はおそらく、逃げたくなるのかもしれません。
自分の理解できる範囲を超越した思いというものは、人を不安にさせるものだと思います。よくわかります。
しかし、そこに立ち向かい、正面からぶつけられた思いを正面から受け止めた先にこそ、真実の道が始まるのではないでしょうか。
過去からの集合意識による偽りのメッセージになど左右されることなく、自分の中の真実に従い、自分を真実の愛へと導けるような道を探して歩んでください。
樹木希林さんは、恐らく、亡くなるその瞬間まで、寂しかったはずです。
立派な女性だ、よく耐え抜いた、愛し抜いた…そのように人から讃えられることよりもずっと、旦那様が側に居てくれる日々を、切望して日々を過ごしてきたのではないでしょうか。
旦那様が、真実に気づき、ありのままの愛で自分を愛してくれる日を待ち望み、生き絶えたのではないでしょうか。
それを「強い女性」と讃えるのは、私は、彼女に対する最も心ない言葉であると、ずっと思ってきました。
お二人の夫婦としての在り方は、決して、理想的な姿などでは、ないと私は思います。
「浮気は男の甲斐性」などではありません。
その言葉に従い、それを許すことが女性としての理想的な在り方と思っている女性も多いかと思います。
しかし、傷ついたのなら、「傷ついた」、と…悲しいのなら、「悲しい」と素直に伝えましょう。
互いに歩み寄ることが、愛です。
決して、自己犠牲が愛ではありません。
真剣に、愛と性を見つめてみる時間を設けてはいただけないでしょうか?
若者たちは、特に。
過去からの誤った慣習は、自らの強い意志を持って、乗り越えることもできます。
そこに大切なのは、自分自身の明確な意志を確認し、それを自分の軸として生きる、ということです。
悲しむ人が一人でも減ってくれますように、今日も願います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。
ほう・れん・そう
こんにちは!
「ほうれんそう」と聞いて、何を思い出すでしょうか?
もちろん、今日の記事のテーマは、野菜のほうれん草では、ありません。(笑)
いわゆる、「報告・連絡・相談」、それぞれの一文字ずつを並べた「報連相(ほうれんそう)」について、今日は記事を書かせていただきます。
三人寄れば文殊の知恵ということわざがありますが…
現代人の多くは、三人寄れば不平不満…が実情ではないでしょうか?
これは、「ほうれんそう」の重要性を切実に認識できていないからだと、私は思いました。
昨日の記事でも触れましたが、、私たちの生涯において、常に切っても切り離せない関係である「時間」という概念は、それをしっかり認識し、自分自身で意識的に捉え方をコントロールしてゆくことによって、良くも悪くも自分への変化を促すために利用することができるものでもあります。
社会人にとって重要な課題として、「ほうれんそう」が頻繁に利用されますが、これは、人と人とが交流する上で、常に利用可能ではないか?…と、気づきましたので、今日はみなさんにご提案させていただくことにしました。
多くの人は、自分の自由になる時間を、他者との交流にあてがいます。
「自分自身との対話」に重きを置くことのできる人は、他者と自分との線引きに慣れていることが多いので、これから述べることを自然と身につけている場合が多いと思います。
しかし、「孤独」を埋めるために他者とのつながりを必要以上に求める傾向のある方にとっては、参考にしていただける可能性が高いので、ご自身を理解する上でのきっかけとしていただけたら幸いです。
「報告(過去)」
「連絡(現在)」
「相談(未来)」
と、それぞれを捉えた時、報告(過去)をまずは、近況報告と、限定して捉えます。
限定する意義とは、古くて、既に解決不可能であったり、振り返る意味のない自身の過去を打ち消す必要があるからです。
次に、連絡(現在)は現状の事実確認と認識、課題の把握として捉えます。
最後に、相談(未来)は、課題に対する自身の決意表明の場として捉えます。
多くの人は、他者に相談を持ちかける段階で、既に自分が選ぶべき手段を知っています。
「本来の自分自身」とつながることのできる人は、この一連の流れを自分の中で行うことができますが、未成熟な精神である場合には他者とのつながりを介して習得する必要があります。
(相談の内容いかんによっては、専門家の知識を要する場合もありますので、ご自身には解決不可能である内容や、問題が重篤な場合は、安易に判断せず、きちんとした専門機関を訪ねてください。)
他者とひとくくりに言っても、この場における他者とは、ご自身が、「自分をしっかり持っている人」、と最低限の信頼を抱ける方に限定して実行することによって、トラブルを避けることができ、なおかつ、ご自身の心身を不要な負荷から避けることができるはずです。また、複数名ではなく、一人に限定して集中して向き合った方が効果があると思われます。
そして、その人と会う時には自分の中でまず時間設定をあらかじめ決めておき、その時間内でバランスよく、三つの事柄を配分するように心掛けてみてください。
そして、時間が設定より早まろうと、余った時間は、リラックスして、自分の決意表明が揺らぐような言葉を口にしたりせず、また、決して、不要な過去の話を避けてください。
人は、思い出の中に、自分のネガティヴを寄せ集めて、閉じ込めている人が多いものです。
しかし本来、それを口に出すことには、メリットはありません。
前向きな言葉を吐き出す自分、自分を励ます自分の存在というものを、人は望んでいます。
そして、これを受け取る側の立場からしてもまた、同様のことを言えるでしょう。
ネガティヴが与える印象というものは、受け取る側からしてもネガティヴでしかなく、逆に、ポジティブが与える印象は、受け取る側からしても、ポジティブであるという、素直な原理です。
このシステムを踏まえて、自分を再認識し、新たに、タイムラグを起こすべき思考の構築に役立てていただけましたら、幸いです。
苦しみから自分を救い出すために、一番頼れる人は、「自分自身」です。
そして、自分自身と向き合う時に、一番大切な思いとは、「素直さ」です。
真っ正面から自分と向き合うことができて、その思いを汲み取り、それを叶えてあげると、本来の自分自身は、とても喜びます。
その感覚が、もし一度でもわかったら、自分に嘘をつくことが嫌になるはずです。
そこから先の世界は、自分の力で、探してみてください。
悲しむ人が一人でも減ってくれますように、今日も願います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。
タイムラグ
不器用な人の、不器用な想いというものは、いつまでも心に残ります。
完璧な人など、きっとこの世にはいません。
過去を振り返ってみて、とても自分を苦しめた人や、悲しませた人のことを、少し思い出してみてくれませんか?…
あまり時間の経っていない思い出というものは、自分とまだ距離がしっかり取れていないので、整理がつかないものもあるかもしれません。
しかし、自分の中でしっかり整理もできていて、気持ちを切り離して考えられる思い出の中から、一番辛かったものを思い出してみてください…
その思い出の中にいる人はきっと、とても不器用な人です。
その人は、もしかしたら、「自分自身」であるかもしれません。
誰かに傷つけられた思い出ではなく、誰かを傷つけてしまった思い出かもしれませんね?
人は、「時間」と共に生きています。
時間は、私たちを癒し、私たちに想像力を与え、許しや、気付きをもたらしてくれます。
いわゆる、「タイムラグ」というものです。
時間が経った後、緩やかに、優しく、人は傷を癒してゆきます。
しかし、これは、一方では「時間」という概念に甘えている、とも言えます。
人に与えられた「生涯」という時間は、永遠ではありません。
必ず、終わりがあります。
その上で、言えることがあります。
「タイムラグを自ら引き起こすこと。」
も、可能であるということです。
過去と現在を繋ぐ時間のものさしを、自ら、せばめてゆく思考を生み出すこともできることを、知ってください。
タイムラグに頼らず、時間がまるで経過したかのように、人を許し、自分を癒すことも、「思考」によって可能にできることを、知っていてください。
人は皆、完璧ではありません。
自分が人に、自分の思いの全てを伝えきることができないように、人もまた、自分に対して、その思いの全てを伝えきれないフラストレーションを抱えているのです。
だからこそ、
「理解したい」
「わかり合いたい」
という気持ちが大切なのです。
「理解すること」
「わかり合うこと」
は、決して、重要ではありません。
重要なのは、「結果」ではなく、「過程」だと、私は思います。
そこに込める「思い」であると。
「思い」とは、すなわち、「愛」です。
いかなる困難も乗り越えることのできる、人の最大の武器は、「愛」です。
人は愛に飢え、そして、愛を何よりも欲しています。
自ら進んで、愛を与えられる人でいてください。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。(^-^)
変化
こんにちは。
いかがお過ごしですか?
昨日は、記事を書けませんでした。(笑)
昨年の年末から、少しずつ、
「自分自身に責任を課したい。」
「自分の言葉にもっと説得力と、責任を持たせたい。」
そう思うようになりました。
数日…で答えが出るかはわかりませんが、真剣にこの言葉の意味と真意を考えてみようと思います。
自分の変化を前向きに、しっかり時間を掛けて向き合ってみようと思います。
「生きる」って、面白いですね。(笑)
自分の変化って、面白い。
しばらくの間、ブログの更新はランダムになってしまうかもしれませんが…
あらかじめ、ご了承いただけたら幸いです。
本日もお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します!(^-^)
子供なりの苦悩
こんにちは。
いかがお過ごしですか?
昨日、息子と泣きながら話した内容について、今日は少し綴らせていただきます。
「え?そんなことで泣いたの?」
…なんて、笑わないでくださいね?(笑)
14歳の息子にとって、学校の友達との関係性というのは、ほとんど全てと言っても過言ではありません。
そして、今の時点で、友達との信頼関係の築き方や、気の合わない友達との関わり方をどう工夫してゆくかが、今後社会へ出て、大きく意味を成してくれると私は考えています。
大人と同様、
「気の合わない相手との関わり方」
や、
「気が合う相手の中にある嫌な部分の克服方法」
が、彼の現状の課題でした。
彼は、私に、こう言いました。
「まず、お前が俺に、俺の嫌なところを言ってくれ。そうしたら、俺が今度は、お前の嫌なところを言うから、お互いにそこを直そう。」
そのように、友達に提案するそうです。
すると友人は、ここが嫌だから直して欲しいと息子に伝えるそうです。
そして彼は、
「でも俺はお前のこういうところが嫌だ。だから、お互い様だろう?」
と返すそうです。
「お互いに、直せるように気をつけよう。」
そうやって相手に言うんだけど…変わらないから、そこから先には進まない。
どうしたらいいかわからない、と私に言いました。
そのやりとりを続けた結果、関係性が改善されてゆく見込みが薄いことが、すぐにわかりました。
互いを責めあって、そこを改善してゆけるほど、子供たちはまだ成熟していないことがわかりました。
ましてや、大人にだってそれは、とても難しいことだから。
自分の非を言葉にして伝えられて、素直にそこを改善すべく自分と向き合える人というのは、世の中に、それほど多くはいないはずです。
だから私は、彼にこう伝えました。
もしも誰かに、自分の非を責められたら、反対に、あなたは、相手の好きなところを見つけて、そこを褒めなさい、と。
そして、その言葉を発している時の自分自身の気持ちをよく感じなさい、と。
本心から思ったことでなければ、伝えても意味がない、と。
「わかった。お前は俺のそういうところが嫌なんだな?でも俺は、お前のこういうところが好きなんだ。だから俺は、お前と仲良くしたいんだ。」
と、伝えなさい、と言いました。
そうしたら彼は、涙を流しながら頷きました。
彼が、ちゃんと私の言葉の意味を理解し、受け取ってくれたことがはっきりとわかり、私も嬉しくて泣きました。
彼は、必ず私の言葉を実践してくれるであろうことがわかりました。
そして、次に会う時、彼の心がまた挫けそうになっていたら、ブレずに同じように言葉を交わそう、そう思いました。
私自身も、彼に掛けた言葉に恥じぬよう、その言葉に嘘偽りのような薄っぺらい誤魔化しが混じらぬよう、自分の日々で、同じように生きようと、固く決めました。
「大切なことを毎日忘れずに生きる」
というのは、難しいことのように感じられるかもしれません。
しかし、自分の大切な人に対して、その人と離れている時も胸を張って生きられる、ということは、巡り巡って、自分自身を大切にできている、ということでもあります。
私の息子は、幸いにも、身体も大きくて、いじめを受けるようなタイプではありません。
ですが、全ての子供たちが私の息子と同じとは思っていません。
安易に、私と同じような言葉を掛けてしまうことは、危険だと思います。
人は、皆それぞれ、個性を持っています。
大人であっても、子供であっても、それは同じです。
「どのように現状を打破すべきか。」
「問題を克服すべきか。」
それは、全ての人の、全てのケースによって、違うはずです。
しかし、根底では皆、一つに繋がっているとも考えられます。
みなさまが、自分なりの愛の示し方を追求し、現実に叶えていかれますよう、陰ながらお祈り申し上げております。
長くなりました。
息子の話は、今日で終わらせていただきます。(笑)
退屈な思いをされた方がいらしたら、申し訳ありませんでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
心から感謝致します。