「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

男性の狩猟本能

今日は、男性の「性」について、集合意識に惑わされているであろう、既成概念に、真っ向勝負を挑みたいと思います。(笑)



男性の性欲について、「浮気は男の甲斐性」という、過去からの言い伝えのような偏見について、私は、誤っていると、気づきました。



特定の人を愛する、という感情について、私はずっと、考えてきました。



人は、たった一人の人を愛し抜くことで、強くなれるし、本来の自分自身に繋がることができるようになると思います。



そこに介入してくるであろう「縁」という存在について、その理由に言及することは、今の段階で、私には不可能です。



しかし、恋愛という特別な縁を通して、人は深い学びを得ることができます。



その上で欠かせないのが、「信頼関係」です。



ところが、この信頼関係を築く上で、性を基準に、根本的な男女の違いを明らかにされてしまうことは、私にとって、非常に辛いことでした。



交際相手に、別の人が現れ、その人と性を交わし、今まであった縁に切れ目が生じる…


いわゆる「肉体的な浮気」と言えるでしょうか。



このような事実に直面した時、男性の多くは、男性の本能に言及する場合が多くあります。



「男には狩猟本能がある。」



これが、ターゲットとなる魅力的な女性を射止め、肉体関係へと繋がる理由にされる場面を、よく目にするものです。



今日の、私の気づきは、紛れもなく、ここにあります。



古代の男性が、狩猟に勤しんでいたのは、何故でしょうか?



その行為そのものに、刺激を受け、楽しんでいたでしょうか?



私は、そうは思いません。



古代、男性が命懸けで狩猟に勤しんでいたのは、ただただ一心に、愛する人のためであったのではないでしょうか。



愛する人が飢えずに済むように、愛する人の喜ぶ顔を見られるように、愛する人を養い、そして、守り抜くためであったのではないでしょうか。



そのような思いを、まるで男性が生まれ持った本能であるかのように偽って汚すような真似は、とても悲しいことだと思いました。




男性が女性を軽視しているとしたら、それは、女性が男性を軽視しているからです。


男性を本当の意味で、信頼できていないからです。


それは、逆もまた、然りです。




「命と、性を愛で繋ぐ。」



そこに、過去からの誤ったメッセージを介入させる必要はありません。




性も、命も、本来は等しく神聖なものです。




表面的な出来事にとらわれて、ものごとの本質を理解しようとはしないのが、人間というものです。



しかし、本来大切なことは、逆です。



ある出来事に関して思考する時に、最も必要なことは、ものごとの本質をとらえることです。



自分の目の前に現れた尊い縁に対し、どれだけの誠意をもって相手と向き合うか…



相手に欲するばかりではなく、自分が先に差し出すこと。



そして、自分が先に差し出したのなら、相手に見返りを求めないこと。



そこに、自分の成長への道が開かれます。





亡くなられた樹木希林さんについて、私の勝手な見解を述べさせていただきます。



多くの方は、おそらく私の意見には否定的なご意見を持たれるかと思いますが、あくまでも、一つの見解としてお許しいただけましたら幸いです。



樹木希林さんと、内田裕也さんは、ご夫婦でした。



おそらく彼女は、生涯をかけて、旦那様を心から愛されたのだと思います。



しかし、旦那様である内田裕也さんは、彼女の愛に怖気づいていたはずです。



あまりにも深い愛を前に立ちすくみ、別の女性との肉体関係に逃げたのだろうと、私は思います。



二人の夫婦としての在り方を、まるで美談のように話すテレビ番組に、私は、違和感を感じずにはいられませんでした。



愛を精一杯捧げてくれる人を前にした時、人はおそらく、逃げたくなるのかもしれません。



自分の理解できる範囲を超越した思いというものは、人を不安にさせるものだと思います。よくわかります。



しかし、そこに立ち向かい、正面からぶつけられた思いを正面から受け止めた先にこそ、真実の道が始まるのではないでしょうか。



過去からの集合意識による偽りのメッセージになど左右されることなく、自分の中の真実に従い、自分を真実の愛へと導けるような道を探して歩んでください。



樹木希林さんは、恐らく、亡くなるその瞬間まで、寂しかったはずです。


立派な女性だ、よく耐え抜いた、愛し抜いた…そのように人から讃えられることよりもずっと、旦那様が側に居てくれる日々を、切望して日々を過ごしてきたのではないでしょうか。


旦那様が、真実に気づき、ありのままの愛で自分を愛してくれる日を待ち望み、生き絶えたのではないでしょうか。


それを「強い女性」と讃えるのは、私は、彼女に対する最も心ない言葉であると、ずっと思ってきました。


お二人の夫婦としての在り方は、決して、理想的な姿などでは、ないと私は思います。




「浮気は男の甲斐性」などではありません。



その言葉に従い、それを許すことが女性としての理想的な在り方と思っている女性も多いかと思います。



しかし、傷ついたのなら、「傷ついた」、と…悲しいのなら、「悲しい」と素直に伝えましょう。



互いに歩み寄ることが、愛です。



決して、自己犠牲が愛ではありません。




真剣に、愛と性を見つめてみる時間を設けてはいただけないでしょうか?



若者たちは、特に。



過去からの誤った慣習は、自らの強い意志を持って、乗り越えることもできます。



そこに大切なのは、自分自身の明確な意志を確認し、それを自分の軸として生きる、ということです。



悲しむ人が一人でも減ってくれますように、今日も願います。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から、感謝致します。