追記(笑)
本日は、「番外編」と称する「追記」をご用意致します。(笑)
是非、空いた時間にご賞味ください!(^-^)
人に見える景色というものは、自分の心の反映でもあります。
「人から好かれたい」
という思いが私に見せてくれた景色は、
「人から嫌われているかもしれない」
「人から嫌われるかもしれない」
という、気弱で臆病な自分も他者も信頼できない寂しい景色でした。
しかし、
「人が好き」
「人を愛したい」
という自分の願いに気づいてからの私に見える世界は、
「人の温かさ」
「人の笑顔の温もり」
「愛」
そんな、輝かしいものばかりです。
その時、自分の不平、不満、悩みは、とってもちっぽけに見え、心の隅っこに、微かに存在する程度になりました。(笑)
一瞬、落ち込みそうになったら…
私は、魔法の呪文を唱えて、また、笑います。(笑)
「ケ・セラ・セラ」
と。(^-^)
「なるようになるさ。」
「なんとかなるさ。」
すると、また、私の目の前に広がる景色は、強く輝き始めてくれます。
人生は、なるようにしか、ならないでしょう。
そして、為せば成る、為さねば成らぬものでもあります。
どうにもならない、どうしたらいいかわからない、と悩む時間があるのなら…
どうすれば良いか、何からまず始めたら良いか…、欲張ることなく、自分にいきなり重責を課すのではなく、自分を労わりながら、ねぎらいながら、はじめの一歩を探し、前を向くのです。
ゆっくり、のんびり、落ち着いて、生きるのです。
朝は太陽の光をしっかり浴びて、ご飯をきちんと食べ、夜はしっかり眠るのです。(笑)
当たり前のことを、当たり前にできるようになったら、改めて、次のステップが見えてきます。
「太陽が綺麗だな。」
「日差しが心地良いな。」
「ご飯が美味しいな。」
「夜だから、眠いな。」
そう感じられるようになってきたら、その思いに素直に従い、その思いを、愛しく受け取りましょう。
そして、そのような感覚を取り戻せた自分をしっかり褒め、そして、感謝しましょう。
「自分が生きていられること」
「自分が生まれてきたこと」
に。
人々が悲しい思いをしなくて済むように。
みんな同じ、等しく価値のある命であるということに。
誰しもが気づいてくれますように。
…それでは(^-^)
課題への取り組み
満足への飢餓
こんばんは。
今日は、記事を書くのはやめようかな〜と思っていましたが…
フッと、感じたことがありましたので、短く、伝えさせていただくことにしました。(笑)
では、手短に…
いつも何かを欲しているばかりの人というのは、「満足感」に対する飢餓状態である、と私は思います。
たとえば、人に何かをしてあげる時、最初は誰しも見返りを期待などしてはいないのではないでしょうか?
しかし、関係性が密になってきて、
「何かをしたら、何かを返してもらう。」
それを繰り返すうちに、
「何かをしてあげるのだから、何かを返してもらって当然。」
という状態が訪れるわけです。
もしも、誰かに何かをしてあげなくてはならないような状況になったとしたら、
「自分は、この人のために、してあげたいと思ってするのだから、見返りなど一切期待しないで、やろう。」
そういう考え方を、意識的に自分に教えてあげてください。
それは、「満足感」への飢餓状態から、自分を脱却させる方法でもあります。
「与える」、「受け取る」すなわち…
give & takeを前提とした関わり合いではなく、「分け与えても減らないものの存在」を感じるきっかけになってくれるはずです。
その存在を感じることで、「自分にしかできないこと」、「自分だからできること」の大切さを感じられるようになるでしょう。
それが、自分を肯定して、自分を育む糧になります。
その時、「満たされている自分」に出会えるでしょう。
そして、なぜこれまでの自分が満たされていなかったのか…その答えが、わかるはずです。
みんな、誰しも、そんな風になりたいと心の奥で願いながらも、
「それじゃあ自分は損をする。」
「嫌いな人間が得をすることになる。」
と、不安を抱いているのですよね?
私もそうだったから、よくわかります。
でも、もっと大きくて広い視野を持って見てみれば、最終的に自分を救ってあげられた者が、勝つのです。
「自分の人生」
という自分だけの舞台において。
だから、恐れは手放して、自分のためにも、変化を促してあげてください。(^-^)
…宣言通り、今日はこの辺で。(笑)
良い週末をお過ごしください。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します!
イメトレ。
こんにちは!
私はよく、ワイドショー(古い表現で申し訳ありません…。)を観ている時に、司会者、ゲスト、コメンテーターの方々の意見を聞きながら、自分なら、番組内で取り上げられている出来事に対して、どのように意見するだろう…また、現実で直面したとしたら、どのようにするのだろう、とイメージトレーニングをしています。(笑)
皆さんは、いかがでしょうか?
兼ねてより、私は、「性善説」に対しても、「性悪説」に対しても、否定的な人間です。
自分以外の人の行いに対して、「善」、「悪」のどちらであるかをジャッジすることにも、意味を見出せません。
「現実的に」既に起きてしまった出来事に対し、他者がどのようにその出来事を捉えるか…に、そもそも興味はありません。
…というよりは、それに関して、人の意見を聞くことそのものに、興味を抱けません。
このように言ってしまうと、とても冷酷な人間であるかのように思われてしまうかもしれませんが…(笑)
決して、そのような意味ではありません。
人の意見は、あくまでも「その人のもの」です。
ですから、いかなる場面においても、「自分の意見」を感じるように気をつけています。
これは、たとえばSNS上での情報に触れた時や、いわゆる集合意識から、自分自身を切り離して思考する練習になります。
自己責任という観点においても、人の言動に左右されて、後々後悔せざるを得ない状況に自分を追いやるような場面から自分を守ることにもなります。
更に追究してゆくとすれば、
「人の振り見て我が振り直せ」
ということわざもある通り、自分自身の身を引き締めることもできますし、また、「善」「悪」の基準に当てはめないとしたら…
どのように考えて行動することにより、問題に直面した時、その問題を解決したり、回避したりすることができるのだろう、という「工夫」を生み出すことにも繋がります。
人の思考は、千差万別が、正常なのです。
各々の違いを意思の疎通というコミュニケーションにより擦り合わせながら、より良い方向へと歩んでゆくことが、大切です。
争いを、争いのまま終わらせないためには、争いから、より良い未来を導き出すためには、互いの意見を尊重しあいながら、不平不満を取り除き合うべく、同じ方向へと導き合うことが大切なのです。
そして、その気持ちで他者と関わり合うことこそが本質的に大切なことなのであって、もしも、双方の理解が得られず、和解に向かえなかった場合には、それもまた、結果の一つとして冷静に捉え、次に繋げる意識に切り替える。
あくまでも、大切なのは、「過程」であり、そこに全力を掛けられれば、「結果」は自ずと付いてくるものでもあります。
そして、全力を掛けた結果が、想定外であった場合にも、自分の行いに、必ず納得できるはずなのです。
描いた理想は、現実で、「リアル」へと落とし込む。
その積み重ねが、自分を育ててゆくことを、是非、楽しんでください。(^-^)
最悪の事態をまず想定して、自らを危険から引き離す。
危険の可能性を排除したなら、次は、前向きにものごとに挑む。
挑むと決めたのなら、全力で、楽しみ、味わう。
全力で楽しみ、味わったのなら、決して、その責任を他者に問うことはせず、自己責任として、自分を納得させる。
私は、その思考を繰り返し練習してゆくことで、だいぶ、現実的に充実した日々を生きられるようになりました。
是非、挑戦してみてください。
先日引退された稀勢の里関の、幼少期のメッセージに、とてもステキな言葉を見つけました。
今日は、それを最後に綴らせていただきます。
「天才は生まれつきです。もうなれません。努力です。努力で天才に勝ちます。」
素敵な言葉だと思いました。
自分の心一つで、人は、いかようにも、自分自身を導くことができます。
私も、頑張ります。(^-^)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します!
介護対策
こんにちは。
今日は、「介護」について、記事を書かせていただこうと思います。
高齢化社会が、年々加速傾向にある近年、介護に関する問題に直面されて、お困りの方々について耳にする機会も増えております。
そこで、健康な内に私たちにできることはないのだろうか…と、考えを巡らせてみました。
私たち日本人は、その国民性から、慎ましやかで、控えめな印象を他国から抱かれております。
そして、「武士」の持つイメージの通り、静の奥に隠された気高いプライドもまた、私たち日本人の多くが昔の人々から受け継ぐ個性ではないでしょうか?
その気位の高さゆえ、高齢化社会となり、やむを得ないにも関わらず、介護をする側、される側の双方が、苦しまなければならないような問題も山積みとなっています。
しかし、人の一生を図にして描くとしたら、生まれたばかりの、母やそれ以外の保護者の手を借りなければ何もできない赤ん坊として始まり、次第につかまり立ちをし、一人歩きができるようになり、学生になり、成人し…
成長の一途を辿る上り坂のグラフを描いた後は、中年期以降、足腰も弱り、記憶力も衰え、やがて老人となり、今度は下降線のグラフを描かざるを得ない私たちでもあります。
平均寿命と健康寿命との間に数年間のギャップを持たざるを得ない私たちにとって、今後、介護に対する、「与える側、受け取る側」双方の抵抗感を払拭してゆく必要があることは、否めないのではないでしょうか?
私は、以前から…
自分に対して、理不尽な対応をされた時、自分がそれに対して、どのように場を収めるか…という決断を迫られた時には、自らを納得させるために、
「プライドを捨てて守れるプライドもある。」
と、言い聞かせてきました。
誰しもが、人からよく見られたい…などという類の承認欲求を持って生きています。
そして、それは、必ずしも全てが、悪いことだとは思いません。
しかし、その欲求が、自分を向上させるために作用するのならまだしも、自身を追い詰めるような作用をもたらす時には、私は、拭い去ることが何よりである、と考えています。
介護という問題に関して考えた時に、これまで五体満足で暮らしていた愛する家族が、自力で用を足せなくなったりした時に、介護を受ける側も、与える側も同様に、互いのプライドを尊重したいが故の葛藤を抱くものなのだと思います。
汚物の処理をする側も、される側も等しく、健康な時に感じていた羞恥心を、半ば強制的に剥ぎ取られるような感覚にとらわれてしまうのは、至極当然のことのように思えます。
けれど、人は皆、やがては老いて、身体の自由もきかなくなるものです。
現役時代、どれほど精力的で、快活な人であったとしても、老いは命の続く限り等しく皆に訪れ、それを互いに認め、受け入れていく必要のあるものです。
だからこそ、一瞬一瞬が輝くのだと思います。
そして、輝きを失ったからといって、命の重みに変わりはないはずです。
高齢化社会になり、老人が増えたからといって、決して、ないがしろにしていい命ではありません。
私たちもまた、やがては、同様の道を歩んでゆくのです。
だからこそ、「老い」への道の始まりを切実に認識し、心の準備を自覚することも必要な世の中になってきていると、私は思います。
決して悲観的に老いを嘆くのではなく、それもまた、人生の一部として捉え、体力が若者より劣ってきたと感じたのなら、素直にそれを受け入れ、次のステージを目指す。
例えば、若者に、体力では敵わなくなったとしても、成熟した人格を育むことに徹することは、老いてからでもできます。
また、後進の育成に尽力することもできるでしょう。
幾つになっても、学び、育むという姿勢で生きられれば、いかなる年代の人とでも、交わって互いに尊重し合って生きることは可能です。
長々と綴ってまいりましたが…
今日、みなさんに提示したかった案を、ここで発表させていただきます。(笑)
私は、以上のような事実を踏まえて、中年期から準備できる介護への備えのある一つのパターンを提案したいと思います。
愛する人がいらっしゃる方、また、夫婦としての連れ合いがいらっしゃる方に対しての提案となります。
もし、今現在、そのような間柄の方が身近にいらっしゃらない方は、いずれ、そのような方に出会えた時に、是非、提案してみてほしいと思います。
それは…
互いに、健康な内から、汚物の処理をし合ったり、介護状態になったと仮定して、シミュレーションをしておく、という方法です。
愛するということを、互いに良いところを見せ合うこと、見つめ合うこと、と捉えている方々が多いことと思います。
しかし、「愛する」ということは、決してそれだけではありません。
互いの欠点を補い合うことでもあり、互いの欠点をも含めて思いやることでもあります。
「お金持ちだから、結婚した。」
「ルックスが良いから、結婚した。」
きっかけは人それぞれ自由です。
しかし、それだけでは、男女の関係は継続できません。
互いの思いを打ち明けあい、互いに思い合い、生きてゆかれる人が側にいてくれることほど、心強い人生はないと思います。
将来的に「介護」に直面した時にも、愛をもって互いを尊重し合える関係を、健康な内から見据えて築き上げてゆけるような方に、みなさまが出会えますように、心から願っております。(^-^)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。
自己責任
こんにちは!
なぜか、自分で「やる」と決めたことなのに、時間の経過と共に、他力本願になっていったり、他者に責任転嫁したり…
人間というものは、身勝手な生き物でもありますよね?(笑)
気持ちはわからなくもないし、自分も、かつては、よくそのような不満を抱いたり、悩んだりして、必死に日々をこなしてきました。
しかし、「自分」という主軸をしっかりと見つめて生きられるようになった時、自分の中に知らず知らずの内に芽生える様々な対象への「依存心」の存在をはっきりと認識することができ、次第に、それらの不満が、「お門違い」であることに気づきました。
誰かに何かを「してもらうこと」
誰かに何かを「してあげること」
そのどちらも、同様に、私の中では「依存心」として認識しています。
そもそも、他者がいなければ、成り立たないことだからです。
何をするにしても、してもらうにしても、全て、自己責任に基づいて考えれば、
「自分で選んだ選択」
です。
結果に振り回され、他者を責めるのは、お門違いです。(笑)
だからこそ、選択肢を複数認識して、どの方法を選択するかの時点で、自分に全ての責任を課せるよう、しっかり言い聞かせる。
軽率な言動は、減らしてゆく努力を怠らない。
いつ何時も、しっかり、全力で、真摯に生きる。
その積み重ねに、必死で取り組む。
そうしてゆけば、次第に、他者を責める気持ちは薄れてゆきます。
結果をあくまでも自分の選んだ選択肢の「結果」として、受け止められるようになるでしょう。
自分も、他者も、尊重する気持ちが芽生えてゆくでしょう。
みんな、そもそもを、間違えているんだよ?
私は、一通り弱音を吐かれた後、散々愚痴を聞かされた後でも、たった一言でもいい…
一番最後に聞かせてくれる言葉が、自分を奮い立たせるための言葉であったり、弱気な自分を励ますための言葉であったり、他者を思いやる言葉であったり…
そんな人が、大好きです。
人は皆、自分の過ちに気づいている、と確信しています。
どれだけ無神経に見えても、素直じゃなくても、弱虫でも、格好悪くても、頑固なお年寄りでも、無知な人でも、みんなが、
「素直に生きたい。優しさを持っている自分に気づいてほしい。」
という願いを胸の奥に抱えて生きていると思っています。
だからこそ、自分自身にそれを許し、できる限り、自分の本心に忠実に生きてほしいと願っています。
頑なに自分を偽っている人を見ることが、切ないです。
誰にも、そんな風に自分を苦しめてほしくはないし、誰のことも憎んだり追い詰めたり、傷つけたりしてほしくはありません。
傷つけていい人なんて誰一人いないし、傷つけられていい人なんて、誰もいないはずだから。
自分が選んだ選択の結果、自分が苦しかったり、辛かったりするのなら、それは、自分のせいだった、そう認めてあげてください。
それを最初に受け入れることは、難しいことなのかもしれません。
でも、そうやって受け入れ、次に生かす。
次に似たような場面に直面した時、同じ過ちを繰り返さないように学んでゆく。
それに気づき、自分を導いてゆくためには、他者ではなく、何よりもまず、自分について、よく見つめて理解する。
自分を導いてゆくのは、自分自身で、自分の人生を生き抜いてあげられるのも、他の誰でもなく、自分であるということを、真剣に受け止める。
その意味を知ることで、人は、自分の一挙手一投足に全力を掛けることができるようになります。
一生懸命に生きている人を、人は決して、ないがしろにしたりできません。
必ず、同じように生きている人に出会います。(^-^)
現実に生きている世界で見つけられなかったとしても…
少なくとも、今、ここで出会うことができた「私」は、そういう人間です。
だから、私は、遠く離れた場所から、あなたをいつも応援しています。(笑)
気恥ずかしくなり、(笑)を付けてしまいましたが…
私も頑張ります。
みなさんも、それぞれの場所で頑張ってください。
悲しむ人が一人でも減ってくれますように、今日も願います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。(^-^)
長所vs短所
おはようございます(^-^)!
人には皆、得手、不得手…というものがあります。
つまり、得意なことがあれば、苦手なこともあります。
それは、表面的な技術の問題ではありません。
もっと本質的な、長所、短所があります。
みなさんは、自分の長所を、知っていますか?
履歴書に書くような、表面的な長所ではなく、もっと自分の本質的な良いところを、理解していますか?
自分の短所を、知っていますか?…
人が持つ本質的な長所、「魅力」とは、自分で思っている短所であることもあります。
自分が知っている自分の長所とは…
「人から見て、よく見えるであろう自分」
であることがあります。
しかし、もっと本質的な自分の長所とは、
「決して人から見たら今の時点ではよく見えていなかったとしても、自分が本当に好きだと思える自分自身」
であることがあります。
人は、意外と、自分自身について、あまりよくわかっていないということなんですね?
自分について思考を巡らせる時、サインは、自分の心が教えてくれます。
「モヤモヤ」
と
「スッキリ」
シンプルに言えば、こんな感じです。(笑)
人がそれに気付かせてくれることもあります。
「あなたは、意外と○○な人ですね。」
このように言われた時には、チャンス到来!と楽しみながら受け止めてみてください。
「この人は自分をわかっていない。」
そんな風に決めつけてしまうのは、非常に残念なことです。
自分には見えていない自分を、他者が教えてくれている…と、前向きに捉えてみましょう。
自分自身を、これまでの自分の既成概念で縛り付けたりせずに、もっと柔軟に、受け止めて変化する自由を与えてあげてください。
なぜ、今日のブログの記事の中で、長所、短所、と相反する二つを挙げたにも関わらず、長所の捉え方にばかり触れているのか…おわかりいただけるでしょうか?
これは、「わざと」です。(笑)
多くの人は、自分の欠点を見つめ、
「自分はダメな人間だ。」
「自分には、なんの力もない。」
そうやって自らを追い込み、イジメ、苛立ち、焦り、落ち込みます。
そんな時、そのような人は、他者に対しても同じことをしているはずです。
「あの人は嫌な奴だ。」
「あの人には、良いところなんて一つもない。」
そうやって、他者を責め、嫌い、苛立ち、関係をより悪化させるような日々を自ずと引き起こしてしまいます。
しかし、自分の長所、すなわち魅力を見つめ、そこを生かすように工夫してゆくと、自分の中から欠点は、少しずつ陰を潜めてゆきます。
自分の良いところを、伸ばしてあげられるようになると、人は、そんな風に生きてくれる自分自身を次第に認めてあげられるようになってゆきます。
その時には、自然と、欠点であったはずの場所を補ってゆく力も同時に培われてゆくのです。
「欠点をそのまま放置する」ようなことには、決してならないはずなので、そこは、不思議な感覚に一瞬とらわれるかもしれませんが…
「自分自身の成長」
であると、素直に受け止めてください。(笑)
これを自分の習慣にしてゆく時、同時に引き起こされることが、もう一つあります。
「他者を尊重する心の成長」
です。
これまで、どうしたって理解できなかった大嫌いな人の、良いところが、見えてきてしまうはずなのです。(笑)
自分の長所を見つめ、伸ばすことにより、自分が自分のために努力してあげると、それと同じことを他者との間でも、してあげられるようになります。
必ず、起こります。
その時に、
「あの人は嫌いな人だから、そんな風に考えたらいけない。」
そうやって、目を背ければ、おそらくまた、自分を嫌う日々を一から繰り返すことになります。
そこで勇気を出して、嫌いな人の良いところを見つけ出し、自分に対してしてあげられた努力と同じことを、他者に対してしてあげられた時、景色が一変するでしょう。
それを自分の習慣として、生きてゆくことで、「無償の愛」とは何か、真に理解することでしょう。
嫌いな人、苦手な人との距離感は、とても大切です。
人は全ての人と関わらなければならないわけではありません。
関わってはならない相手もいるはずです。
しかし、一瞬でも出会い、その存在を知ってしまった以上は、それもまた「縁」の一つです。
それならば、その「縁」を憎むようなことだけはしないでください。
関わる必要がなくとも、「許す」ことはできます。
その時にもしも、「時間」が必要だと思うのならば、「時間」に甘えてください。
自分の人生です。
他の誰かのためにあるのではなく、自分のためにだけ、あるのが「あなたの人生」です。
忘れないでくださいね?
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。