「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

イメトレ。

こんにちは!



私はよく、ワイドショー(古い表現で申し訳ありません…。)を観ている時に、司会者、ゲスト、コメンテーターの方々の意見を聞きながら、自分なら、番組内で取り上げられている出来事に対して、どのように意見するだろう…また、現実で直面したとしたら、どのようにするのだろう、とイメージトレーニングをしています。(笑)



皆さんは、いかがでしょうか?



兼ねてより、私は、「性善説」に対しても、「性悪説」に対しても、否定的な人間です。



自分以外の人の行いに対して、「善」、「悪」のどちらであるかをジャッジすることにも、意味を見出せません。



「現実的に」既に起きてしまった出来事に対し、他者がどのようにその出来事を捉えるか…に、そもそも興味はありません。



…というよりは、それに関して、人の意見を聞くことそのものに、興味を抱けません。



このように言ってしまうと、とても冷酷な人間であるかのように思われてしまうかもしれませんが…(笑)



決して、そのような意味ではありません。



人の意見は、あくまでも「その人のもの」です。



ですから、いかなる場面においても、「自分の意見」を感じるように気をつけています。



これは、たとえばSNS上での情報に触れた時や、いわゆる集合意識から、自分自身を切り離して思考する練習になります。




自己責任という観点においても、人の言動に左右されて、後々後悔せざるを得ない状況に自分を追いやるような場面から自分を守ることにもなります。




更に追究してゆくとすれば、


「人の振り見て我が振り直せ」



ということわざもある通り、自分自身の身を引き締めることもできますし、また、「善」「悪」の基準に当てはめないとしたら…


どのように考えて行動することにより、問題に直面した時、その問題を解決したり、回避したりすることができるのだろう、という「工夫」を生み出すことにも繋がります。



人の思考は、千差万別が、正常なのです。



各々の違いを意思の疎通というコミュニケーションにより擦り合わせながら、より良い方向へと歩んでゆくことが、大切です。



争いを、争いのまま終わらせないためには、争いから、より良い未来を導き出すためには、互いの意見を尊重しあいながら、不平不満を取り除き合うべく、同じ方向へと導き合うことが大切なのです。



そして、その気持ちで他者と関わり合うことこそが本質的に大切なことなのであって、もしも、双方の理解が得られず、和解に向かえなかった場合には、それもまた、結果の一つとして冷静に捉え、次に繋げる意識に切り替える。



あくまでも、大切なのは、「過程」であり、そこに全力を掛けられれば、「結果」は自ずと付いてくるものでもあります。



そして、全力を掛けた結果が、想定外であった場合にも、自分の行いに、必ず納得できるはずなのです。



描いた理想は、現実で、「リアル」へと落とし込む。



その積み重ねが、自分を育ててゆくことを、是非、楽しんでください。(^-^)



最悪の事態をまず想定して、自らを危険から引き離す。



危険の可能性を排除したなら、次は、前向きにものごとに挑む。




挑むと決めたのなら、全力で、楽しみ、味わう。



全力で楽しみ、味わったのなら、決して、その責任を他者に問うことはせず、自己責任として、自分を納得させる。



私は、その思考を繰り返し練習してゆくことで、だいぶ、現実的に充実した日々を生きられるようになりました。



是非、挑戦してみてください。



先日引退された稀勢の里関の、幼少期のメッセージに、とてもステキな言葉を見つけました。



今日は、それを最後に綴らせていただきます。



「天才は生まれつきです。もうなれません。努力です。努力で天才に勝ちます。」




素敵な言葉だと思いました。

自分の心一つで、人は、いかようにも、自分自身を導くことができます。



私も、頑張ります。(^-^)



最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から、感謝致します!