「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

ブログに込める想い

みなさん、こんにちは。

いかがお過ごしですか?



私は、このブログを通して、「性愛説」というものを提唱しています。



それは、



「人は生まれながらにして愛そのものである。」



という概念です。



一般的には、「性善説」と「性悪説」という儒教に基づく二つの考え方があります。




しかし、私は、そのどちらにも疑問を覚えました。



生まれながらに、「善」「悪」というどちらかに分けられてしまうのは、無理があると思いました。



何をもって、「善」とするのか。


何をもって、「悪」とするのか。



間違いなく、その判断には、第三者の存在が必要です。



そして、それは、第三者が替わることにより、変動する可能性があります。



…ということは、曖昧です。




そして、考えました。



「無理なく受け入れられ、また、矛盾のない人間本来の姿とは、どういう姿だろう。」


と。



その結果、「性愛説」に辿り着きました。



「愛」というものは、とても抽象的です。



そして、本当の意味で、自由です。



何かを傷つけることもなく、誰かを縛り付けるようなものでもありません。



「愛」を突き詰めて追求していくと、必ずといっていいほど、自分の中の矛盾に出くわします。



自分の中で葛藤が起こります。



その時に、真っ先に浮かぶ感情は、保身を目的とする感情であるはずです。



しかし、真に「愛」に基づく自分の在り方というものは、その感情の奥に隠れています。



それは時に、自分を酷く追い詰めるものかもしれません。

自分にとって、不都合なものかもしれません。

それでも、自分も人も傷つけることは、ないはずです。



そして、そこまで辿り着くことが、「愛」へと戻る道であると、私は思います。





そういった概念に基づいて考えてゆくと、私自身がこのブログに書き綴る言葉の中に、決して、押し付けや、強要といった自分自身の傲慢さが垣間見えてはならない、ということに気づきました。




何度もお伝えしたように、私は、まだ未熟です。



時には、断言しておきながら、間違ってしまうこともあるかもしれません。



「生きる」ということにおいて、甘い部分もあるかもしれません。



それでも、自分自身が自分自身を救ったように、また、その方法を一つの提案として、このブログに書き綴ろうと試みております。



「愛」が広がること、「愛」を取り戻し、「愛」そのものである自分に一人でも多くの人が気づいてくれることが、私の最終的な目標です。


私自身の出した、願いであり、答えです。



けれども、その過程、理由、方法はみなさんの自由です。



私が、みなさんの自由を奪うことや、思考を操ることは、願いません。




あまりにも深い心酔や、共感は、洗脳に繋がり、結果、「自分自身との繋がり」から余計に遠のかせてしまい兼ねません。




ですから、自分なりの方法を見つけてください。



私は、その道しるべになることを、望みます。



そのような想いを込めながら言葉を綴るよう心掛けてゆきます。



「人助けがしたい。」

「苦しみの中にいる人を救いたい。」



それが願い、きっかけであっても、表現の方法を間違うと、反対に人を追い詰めてしまい兼ねないことを、私はずっと感じていました。



ですから、自分を律し、伝わる言葉を連ねてゆけるよう、私も、手探りながら歩んでいきます。



「伝える側」と「伝わる側」に同じものが通じるブログを目指します。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から、感謝致します。