「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

心の病

みなさん、こんにちは。

いかがお過ごしですか?




世の中を見ていると、大きく分けて、2種類の人がいます。



「悩む人」


と、


「悩まない人」


です。



「なぜ、人は悩むのか?」



それをしたことのない人からしたら、


「なぜ、そんなことまで考えるの?」


「なぜ、悩む必要のないことで、そこまで悩まなければならないの?」


そんな風に、時には全く理解できない時もあるでしょう。


「そこまで考えなくてもいいんだよ。」


と、声をかける人もいるでしょう。



しかし、当人にとって、そこに解決すべき問題があるから、人はそうせざるを得ないのだと私は思います。


別の誰かにとっては何でもないことであったとしても、当人にとっては大問題であることがあります。


どうすればいいのか?


自分は何に納得がいかないのか?


何が問題なのか?



いわば、乗り越えるべき、自分の課題が、そこには潜んでいます。



問題、課題が、漠然とし過ぎていて、自分が何に納得できずにいるのか、何を悩んでいるのか、何が苦しいのかを、わからない人も大勢います。


しかし、ただただ、生きることが苦しかったり、退屈だったり、何かを持て余しているような焦燥感であったり、サインは、必ずあるはずです。


心当たりがある人も、いるでしょう。



自分は、何も感じてはいない。

何も悩んではいない。


と思っていたとしても、身体の不調といったサインが、先に現れることもあります。



そんな時に、その状況を乗り越えるためには、自分自身をしっかりと見つめることです。



すると、必ず、何かしらの解決できずにやりすごしてしまった問題があることが、次第にわかってきます。



それがわかれば、あとは、もう少しです。



「敵」が見えさえすれば、解決策も自ずと、見えてくるようになります。



問題点が見えないことが、解決には、一番遠いことです。



自分では、何が理由で身体に不調が現れているのか、病院に行っても、身体のどこにも悪いところがない場合には、必ず、原因は自分の心の奥に潜んでいます。


これまでの自分を築く過程で見過ごしてきた負の感情。


人を責める気持ち。



それらは、一方で、必ずといっていいほど、罪悪感を伴います。



そして、自分では気づかなかったとしても、自分で自分を責める気持ちが生まれます。



きっと人は、自分が思っているよりもずっと、優しくて、温かいものなのです。




ふとした瞬間に感じる違和感。


それらは、日常の些細な場面に起こります。



だから、

「まぁ、いいか。」


と、やり過ごしてしまうことがほとんどでしょう。


ところが、何かのきっかけで、ずっと蓄積されてきたそれらの感情が一気に固まりとなって自分を襲ってくる時があります。



そして、それが、現代人の多くが抱える心の

病の仕組みであると、私は思います。




そんな時には、落ち着いて、ゆっくり自分自身に問いかけてみてください。



自分を否定することにばかり集中しないでください。


自分を肯定することばかりにも、集中しないでください。



客観的に、自分と、他人を分けて考えてみてください。



人を否定したくなる時には、少なからず、自分の「思い込み」があります。


自分を否定したくなる時には、少なからず、人の「目線」、「思考」に影響されていることがあります。



幾ら考えても、「人の本心」を完全に理解したり、完全に知ることは、不可能なことです。


その人にできること、わかることは、「その人本人のこと」だけなのです。



ですから、それがどんなものであったのか、を見つめてください。



まず、原因を、探してください。



その度、その度、薬で治療したりして、医学の力を借りても、決して完治は望めないでしょう。



問題を解決してあげなければ、何度でも同じことに突き当たるはず。



カウンセリングを受けるというのは、確かに、きっかけ作りとしては、いいことかもしれません。



それは、自分を見つめる作業を、人を通して始めることができるからです。



人に聞いてもらう上で、自分の声で口に出した想いを、自分の耳で聞くことによって初めて、形のあるものとして認識できるからです。



それでも、それは、きっかけに過ぎません。



結局、向き合い、乗り越えるのは自分自身です。



私は、それら全てが、自己責任であるとは、決して思いません。



国民を代表する国会議員。


マスコミ。


SNSの普及など、情報に密に触れる機会の多くなった現代人にとって、そういった民衆の意識にダイレクトに届くものを発信する人々、またその情報そのものの多くが、「愛」に基づいていないせいであると思っています。



そのような情報過多の現代を生き抜く上で、ひとりひとりが、適切な情報を自分で選び取り、本質を見抜く目が、問われているのだと思います。



また、そのような社会の中で、「集合意識」に左右されることのない、「自分本来の意識」を見つけ、それを確かなものにしてゆく「強さ」が必要な世の中に入ってしまったのでしょう。



「現実」は、目を逸らしようのないものです。


決して、目を瞑り、目を背けてはいけないものです。



ひとりひとりの、今後の自分との向き合い方が、大切な子供たちの未来に掛かっています。



みなさんにお願いします。



自分から目を逸らさず、向き合ってください。


そして、「愛」を取り戻してください。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。