「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

みなさん、こんにちは。

いかがお過ごしですか?



私がまだ、「愛」を理解することができなかった時、いつも、自分の外側のどこかに答えを求めていました。



何をすれば自分は本当に楽しめるのだろうか。



誰といれば自分は本当に満たされるのだろうか。



どこへ行けば自分は本当に安らげるのだろうか。



そうやって、ずっと、自分以外の人やものごとにすがるような気持ちでした。



新しい人に出会ったり、新しい趣味を探したり、好奇心の向かう先に、自分を満たす術があるような錯覚をしていました。

いわば、その「対象」を替えれば、自分を満たせると思っていました。



そして、今はそれが「錯覚」であったことに気付くことができました。



全ては「自分ありき」でした。



結果から申し上げると、外側に、自分の望みや願望、満足感をいくら探しても、答えはありませんでした。



興味、関心は、きっかけに過ぎず、継続は望めません。



恋愛に例えると、わかりやすいかもしれません。



自分の好きな容姿の人、気が合う人とお付き合いをしたとして…


最初は自分の興味や関心があるため、その相手に惹かれます。


相手を満たそうと努力したり、自分がその相手から満足感を与えてもらっているような錯覚をします。



でも、やがてその相手との間に、「自分を満たしてくれない何か」を見つけたり、感じたりする時が来るでしょう。



それでも自分が「我慢して」見て見ぬ振りをしたり、折り合いをつけられている内は、関係は継続できます。



ところが、自分の中では、「我慢している」という不満が存在しています。



その不満は、自分が「本質」に気づかない限り、そのままそこに存在し続けます。



そして、その「本質」から目を背け続け、逃げ続ける限り、不満は大きくなるばかりです。


やがては、その人や、ものごととの関係性を断ち切ることで解消するしかなくなるでしょう。

それで解消できたと、その時は思うはずです。


でも、その繰り返しで、人は、学習してゆきます。


…と、いうよりは、無意識の内に刷り込まれてゆきます。


そして、消耗してゆきます。



「愛なんてこの世にはない。」


「恋愛なんて、ただの錯覚。」


「出会いがあれば、別れもある。」



全部、言い訳です。



関係がうまくいかなかったこと、継続することができなかった自分を正当化するための。



友情も、同じです。



最初は、気が合うと思って仲良くしていたけれど、相手の嫌なところを見つけると、それが日に日に大きくなって、やがては、「縁を切る」「絶交する」ことになります。



それを繰り返していく内に、人付き合いそのものが嫌になったり、自分は「人間不信」だと、人は思い込むようになります。

そして、人が周りからいなくなってゆきます。


その原因は、全て同じところにあります。



「自分」です。



自分の本質に気付き、それを否定したり、認めたりしながら、自分自身と仲直りして、自分自身をよく理解してあげることでしか、その悪循環を断ち切ることは、できません。



それが、「自己愛」です。


「愛そのものである自分自身を思い出す」ということです。



それができて初めて、外側の人、ものごとと深く繋がることができます。



逆に言えば、それができなければ、外側の人、ものごとと深く繋がることはできないということです。





「縁」という言葉があります。


とても、素敵な言葉だと思います。

そして、深い言葉だと思います。



あなたが好きになる人、嫌いな人、みんな、「縁のある人」だと私は思います。



人は、生きている間にいったい何人の人とすれ違うのでしょう。


ただ、すれ違うだけの人。

挨拶を交わすだけの人。

名前は知らないけれど、世間話をする程度の人。

惹かれるものがあって、それでも相手に受け入れられず上手くいかなかった人。

実際に交際したけれど、上手くいかずに、今は隣にいない人。

実際に交際から結婚に至ったけれど、上手くいっていない夫婦。



人それぞれ、関係性の浅い、深いを考えなければ、もっと沢山の人との出会いがあるはずです。そして、別れも。


でも、自分の前に現れる「縁」は、一つ一つが、尊いものです。


自分に与えてくれる影響の大きい人との縁ほど、その人にとって尊いものとなり得ます。


その「縁」の深さというのを、人は直感から感じ取ります。


そして、相手への興味、関心の度合いを調節しています。


それが自分の意志でされていることなのか、よく言われているように、スピリチュアル用語でいう、「カルマ」とか「前世での縁」とか、そういうことは、私にはよくわかりません。


たとえばそれを知ったところで、何かが変わるわけではないと、私は思っています。


大切なことは、「今、目の前にいる人」「今、生きている私」だと思います。



そして、その「縁のある人」というのは、「自分の愛を取り戻すきっかけをくれる人」だと思っています。



人が、誰かを好きになったり、逆に憎く思ったりする時には、自分の中で、自分が忘れてしまっている「愛」が自分に対して、その存在を訴えかけている時であると思います。



だから、関係性を断ち切ってしまったり、別の誰かや何かを求める前に、一度立ち止まって、自分自身をよく感じてください。



そして、答えを出すのなら、投げやりになったり、全てをその対象のせいにせず、逃げることのない答えを、見つけてください。



本当に、自分は逃げていないか?


自分にとって都合のいい道を選んではいないか?


ずるくはないか?


卑怯ではないか?


ちゃんと向き合ったのか?



ちゃんと、自分自身に答えてあげてください。


弱い自分を、自分の力で救う姿勢を見せてあげてください。



成功ばかりでなくても、いいのです。



失敗してもいいから、諦めないこと。

投げ出さないこと。



好きだった人が、あなたの目の前からいなくなることは、あなたを傷つけています。


嫌いな人を憎み続けることは、あなたを追い詰めています。



ほとんどの人が、そのことに気づいていません。



「本当の自分」という存在は、みんな、誰しも、それくらい尊い存在であると、私は、信じています。



自分を救う術は、各々が皆、持って生まれてきています。



人は必ず、「愛」と共に生まれてきます。



それを必死で思い出すのか、忘れたまま漠然と生きて、本当にいいのか、この先の未来は、今、一人一人の選択に委ねられていると思います。





ただし、上述した全てにおいて、身の安全が大前提であることだけは、補足させていただきます。


身の危険、命の危険を伴う場所、人からは、まず、逃げてください。


生きていること、生きること、寿命を全うすることが、一番の目標です。


そして、生かすこと、寿命を全うさせることが、一番の目標です。




悲しむ人が、一人でも減ってくれることを、今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から感謝致します。