「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

取捨選択

こんにちは。

いかがお過ごしですか?




「わからないことがわからない。」



という人がいます。



つまり、何が問題であるかがわからない、ということなのでしょう。



「考える」という行為そのものに対して、その方法がわからなくなっているということなのかもしれません。



「考える」という行為は、自分で明確な意志をもって行うことです。



「感情、感覚」のように、意識しなくても、反射的になされることとは、異なります。



情報が溢れる現代社会において、暇な時間、手の空いた時間には携帯電話などの便利なツールを使って「考える」ことを阻むかのように、様々な情報を、人は自分自身に与えています。



「考える」という習慣がある人は、目にした情報から自分なりの思考を巡らせ、それらの情報に対して、受け入れたり、抗ったりしていることでしょう。

つまり、必要な情報を自分で取捨選択できているということです。



けれど、「考える」という習慣のない人は、目にした情報を、「傾向、流行」と錯覚し、瞬時にそれらを受け入れているのではないでしょうか?




私は、目の前で起こること、耳にすること、全てに対して常に、客観的に判断することを目指しています。



自分が実際に目にしたことと、耳にしただけのことでは、その客観性も微妙に違ってきます。


より近い場所での感覚というものは、臨場感と共に、感情を動かされ、思考に影響を与えられてしまいがちです。



ですから、自分にとって好ましい情報と、そうでない情報とを自分の感じ方を頼りに選び、それ以上の自分への関与と介入を許す、許さないの選別を常に冷静にするよう心掛けています。



それに気づき、できるようになってまだ日も浅いため、的確に選別ができているかは、正直わかりません。



それでも、質、内容に関わらずにむやみやたらに自分に情報を与えていた頃よりずっと、健全に生きられているように思えます。



つまり、全ての情報を鵜呑みにして、右往左往させられるような生き方ではなく、自分の思考までをも左右しかねない情報のリスクを感じ、オリジナリティを持った、人それぞれの価値観を尊重できる情報を提供できる世の中であるよう、そして、それぞれの人が、そういうものを選んで生きていただくことを望みます。





言葉を並べて、他者に気づきを促す、ということは、とても難しいことだと、日々、実感しています。



主観的になることなく、おごり、自負心、強要、強制などの感情が込められていないよう、「愛」を伝えられることに専念しています。



一つ、覚えていてほしいことがあります。

自己防衛という観点から、気に留めておいていただけたら幸いです。



ああした方がいい、こうした方がいい、と、あなたの言動や、身の回りのことについて、具体的な方法を提示して、あなたを変えようとしてくる人がいたら、それは、鵜呑みにする必要性が全くない、愛に基づかない、提案である可能性が高い、と覚えておいてください。



人の思考を左右したい時に、一方的な方向へ向けてのみしか道を提示しない、という方法では、次にまた、何らかの問題に向き合った時、対応する力を養えないからです。



信仰心や、人の苦悩を逆手にとって、実に巧妙に心に入り込もうとしてくる人も、世の中にはいます。


悲しいかな、それが私たちの生きる社会の現状です。



あなたの確かな成長、前向きに生きる姿勢、そして、「愛」とはどのようなものであるかが感じられるものや、人を選び、自分に与えてあげてください。


自分以外の人にも、それと同じように接してあげられるように、生きてください。




最後に、


「人を殺してみたかった。」


と言った少年犯罪者がいます。



彼女は、


「いのちの尊さを知りたかった。」


のだと、私は思います。



被害者のご遺族、その他、関係者の皆様に対して、私は、加害者の心中を察し、綺麗事を並べ、加害者を弁護するつもりは一切ないことを、ここで念のため補足させていただきます。



いのちの尊さを当たり前のように受け止められない子供を育てた、この社会の責任を嘆いています。



私たちが、今、何を伝え、残し、繋いでゆくのか、その未来への責任を感じると共に、不安、恐怖、それらに押しつぶされることなく、願い、祈り、行うことを選ぶ自分であろうと思います。



愛に溢れた、豊かな未来を、願います。





長くなりました。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から感謝致します。