「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

こんにちは。

いかがお過ごしですか?



「死」


は、全ての人に必ず、等しく、起こる出来事です。


生まれることを、自ら抗えないのと同じように、死もまた、自ら抗うことのできない自然の摂理です。



「死」は、受け入れるためにあるのであり、そこに向かうためにあるのではないと、私は思います。



あくまでも、生きた結果が死であり、人は、死ぬために生まれて、生きるのではないと思います。


また、それが、本来の自然な形であると思います。



だからこそ、自分の命を自ら断つことも、人の命を奪うことも、罪に当たるのでしょう。



「命を奪うということが、なぜ罪なのか。」



それは、自分が生まれた時には既に山々がそこにそびえていたように、太陽が空に照っていたように、私たちが「生まれてきた」のと同じように、いくら考えても完全な答えを知ることが不可能であるような、それらと等しいくらい、本質的で、それでいて漠然としている、「ありのまま、あるがまま」の事実です。



私は、現実主義者です。



ですから、「神様」がいるかいないか、わかりません。


いてもいなくても、構わないと思っています。


死後の世界があるか、ないか、わかりません。


あっても、なくても、構わないと思っています。



ですが、それらを実際に「見た」という人がいる限り、「神様がいない理由」も「死後の世界がない理由」も持たない私は、信じている人を否定する気持ちも、ありません。



でも、それを信じたり、また、否定することで、自分にとって得になることは、何もないと思っています。



何も考えず、自然の摂理を受け入れ、抗うことなく生きることを学び、実践するために、命は与えられると思います。



既にそこにあるものや、人を、自分の力で強制的に止めてしまったり、命を奪ったりすることは、それらが自然の摂理に従うことを遮る、ということです。



誰にも、そのような権利も、資格もありません。



せっかく生まれてきて、流れの清らかさを知る機会や、自分の人生を「生きる」機会を与えられたのなら、どのように死ぬまでを「生きるか」、他人を「生かすか」を目的にしてください。



どのように、自分の人生を美しい流れと共に終えるか。



いつか、必ず迎える死を、穏やかに迎えられる「生き方」を選び続ける人であってください。



「死」を、ゴールにしないでください。


「死」は、目指すものではなく、そこに行き着くことを目的に、人は生まれていません。



「死」を迎えるまでに、どう生きるか、生き抜くか。


「死」を迎えるまでに、人をどう生かすか。



全ての人が、「奪うこと」ではなく、「与え合い、守り合うこと」を互いに気付かせあうことが、この世が存在する本来の目的でしょう。



自分の一番奥底の本質に、「愛」を抱いて生まれてきている以上、全ての人に等しく、その機会は与えられています。



見失ってしまったものに気づくために、問題点から目を背けず、逃げないで、言い訳をしないで、本来の自分自身を取り戻してください。




あまりにも有名な言葉なので、ご存知の方も多いかと思いますが、今日は、この言葉で終わりにさせていただきます。





明日死ぬかのように生きよ。


永遠に生きるかのように学べ。



                                        マハトマ・ガンジー



平和を願った人の言葉は、本来の自分を取り戻そうとする過程において、日に日に、その重みを増してゆくはずです。



この言葉の意味を、真に自分自身の力で噛み締めていただける日がくることを、願います。





最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から感謝致します。