「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

こんにちは。

いかがお過ごしですか?



人間は、鏡越しにしか、自分自身の姿を見ることができません。



その姿は、実際の自分自身を真逆に映した姿です。



自分で思っている自分自身というものも、同じかもしれません。



たとえば…理想が高く、人に対して多くを求め過ぎてしまい、それを口に出して人に指摘する癖のある人というのは、往々にして、自分自身はそのように在ろうとはしません。



口に出して、人に指摘して、人を非難することができる人というのは、自分自身のその言動が既に、人を尊重できていないということに気づいていないからです。




鏡に映って、目にすることができる自分自身とは、自分の思い描いている理想の真逆の姿かもしれません。



そして、「人から見た自分」もまた、気づかぬうちに、自分の思い描いていた理想の真逆のような自分になってしまっているかもしれません。



…人に対して、愛を示すということは、時に黙することである、と私は思います。



相手を理解できるが故に、決して責めることもできず、しかし、相手の心の闇を拭いたいが為にできる唯一のことが、「沈黙」である時があります。



もしも、黙って自分の話を聞いてくれる人が側にいたら、その人を通して、「本当の自分」を探そうとしてみてください。



いつも黙って話を聞いてくれるからと言って、その人が、自分の全てを認めてくれているわけではないと、自分を省みることを忘れずにいてください。



そして、人に対しても、できれば同じように接してみてください。


理不尽に目をつむり、罪を見逃せと言っているわけでは、決してありません。


「善」「悪」ではなく、「愛」を基準にして、相手の意を、汲んであげられる場面というものが、あるはずだからです。


その見極めをする意識を、身につけられるよう、目指してみてください。



「鏡の中の自分」が、自信に満ちた柔らかく、温かな眼差しで自分に微笑んでいてくれるような日々を、生きてください。



それができた時、人から見たあなた自身も、きっと、同じように映っているはずです。



「そんな風に生きられたら、どんなに楽だろう。どんなに幸せだろう?」


…その通りです。



だから、あとは、「理想」を「現実」と繋げるだけです。


まず、いつも側に居てくれる人に。


それができたら、次は外へ出て、その日会う人に。


毎日、毎日、一歩一歩、一人一人に対して、少しずつでいいから、「現実」の中で行なってゆく。


失敗しても、諦めずに。


その積み重ねがやがて、自分の後ろに繋がる「自信」という道になります。



頑張って生きましょう。

私も、頑張ります。



悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。


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