父親
こんにちは。
いかがお過ごしですか?
私の父は、東日本大震災の年、2011年3月13日、震災の二日後に亡くなりました。
病死でした。
被災地のど真ん中に、私は住んでいません。
ですから、多大なる被害を受けられた方々がどれほど悲惨な目に遭われたか…
私には、想像することしかできません。
私にとって、あの震災の日は、父親の死と向き合わなければならない、覚悟を迫られていた日でした。
父親の死後、自営業の母親と兄は、大変な自立を強いられました。
それまで、共依存の関係であった私の家族は、父親の死後、経済的にも精神的にも困窮の一途を辿ってきました。
私には、父が亡くなる日が近いとわかった時、遺される者たちが味わうであろうそれぞれの闘いが、容易に想像できていました。
自分自身もまた、そのうちの一人であることも。
具体的な関係性がわからないと、何のことを話しているのかわからない方も大勢いらっしゃるかもしれませんが、そこは皆さんのご自由に解釈していただいて構いません。(笑)
私の家族とは、そのような多少の問題を抱えてきた家族でした、と、ここでは済ませてください。(笑)
家庭を築き、実家から出ていた私は、父の亡くなった年に離婚をし、再び、そのような状態の「家族」と関わらざるを得なくなりました。
私は、女だてらに、「父親役」を努めようと心の中で、勝手に決めました。
自分が、家族を導く、精神的な支柱になろうと思ったのです。
その時に一番大変だったのは、父親が金銭的な支柱でもあった、という事実でした。
ところが、私には、それほど充分な資金援助をしてゆくだけの器量がありませんでした。
それは、今も変わってはいません。
まだ、夢を叶える途中です。
私は、三人兄弟の末っ子で、一人娘の長女です。
形式的に、私には、家族を養わなければならない道理は、全くありません。(笑)
そして、建前上、家族の心の中でも、私が支えようと思っているなど、誰も気づいてはいなかったはずです。求めてもいなかったでしょう。
それは、私にもよくわかっていました。
しかし、私には、受けた恩がありました。
困らせてきた、という自責の念がありました。
自分の「してやってる」という自負心を満たすためにだけ、そこに向き合っていた間の日々は、それはそれは苦痛でした。
「なぜ、自分を犠牲にしてまで、人のために自分がひもじい思いをしなければならないのか。」
「なぜ、私の心が悲鳴をあげていることに、誰も気づかないのか。」
寂しい、悔しい、悲しい。
そんな風に思っていました。
そんな時、父親から受けてきた「愛情」をいつも欲していました。
懐かしんで、また寂しくなり、涙する。
ずっとそんなことを繰り返している内に、次第に、
「こんな私の姿を見て、父親が果たして安心できるだろうか?」
そう気づきました。
「これが、受けた恩に報いることだと、本当に言えるだろうか?」
答えは、NOでした。(笑)
その瞬間、「依存」の正体を、はっきりと認識しました。
そこにあった自分自身の「自負心」「おごり」も、はっきりと認識できました。
そして、自分以外の人同士の関係性というものを人は容易に認識できても、自分自身がその中に飲み込まれていると、それを認識することが難しくなる、という人間のシステムを理解しました。
まず、向き合うべきは、自分の中の「自負心」を消すこと。
自分を、いつも、見失わないようにたしなめること。
自分の言い分を聞いてやって、自分以外の人の言い分を聞いて、どちらも傷つけないように、公平であること。
自分も、自分以外の人も、尊重すること。
そして、その姿勢であることを、示し続けること。
そのために、「依存」の関係は、私が断ち切ろうと思いました。
自分が、きちんとそこから抜け出す姿勢を示し続けることで、結果的に、同じように気づいてくれるように、いつも、そんな自分でいよう、と。
「人を助けたい。」
「自分には助けたい人たちがいる。」
そう思った時に、一歩、自分自身を引いて見つめてみました。
そして、自分自身に掛けた言葉があります。
私が、私自身に掛けてくれた、忘れられない言葉です。
「自分を助けられない人間に、人助けなんて、できるか!!!」
いつも、謙虚に、自分を見つめ続けてあげることを忘れずに。
そうしてゆくと、自然と、人にもそれを繋げてゆこうと思えます。
私も、毎日忘れずに、それを繰り返し、自分自身に言い続けています。
「私は、こんな風に毎日生きてるんだぞ!
偉いでしょう?」
そんな風に受けとらないでくださいね?
「私も、必死で生きています。だから、一緒に頑張りましょう。」
そのような想いが届いてくれたら、と願います。
長くなりました。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から感謝致します。