和解策
こんにちは。
いかがお過ごしですか?
悲しい事件、悲惨な事件、世界中で日々起きているであろう、胸を締め付けられるような出来事を知るたびに、感じていたことがありました。
「なぜ、人は、自分を正しいと思い込んでしまうのだろう?」
「それほどまでに自分を主張しなければならないほど追い詰められてきた人の思考とは、どのようなものだろう?」
「苦しみを見つめることしかできなかった人生というのは、どんな人生だろう?」
「本来の自分から逃げ続けている人の元にある悲しみを癒して、導くために掛けてあげられる言葉があるとしたら、それはどんな言葉だろう?」
「既に傷つけられてしまった人の、その傷を癒すためにできることは、なんだろう?」
なぜ、これほどまでに他者を理解しようとせず、頑なに耳をふさぐのか?
自己を正当化しようとするのか?
そのような人も、たしかに存在します。
人というのは、知らず知らずのうちに、人を傷つけてしまうということもあります。
何を言われて傷つくのか。
それは、その人によりけりで、本来は褒めたつもりで言っている言葉が、時には相手を傷つけてしまうこともあります。
何が正しい。
何が間違っている。
その視点で物事の表面を捉えている限り、ずっと、答えは出ません。
それは、日々、移ろうだけで、決して定まることはないでしょう。
相手が替わる度に、答えは替わります。
いわば、答えは無数に存在しているということです。
そして、果てしない数の人が存在する中で、常に「正しくある」ことは、不可能に近いことだと、私は思います。
だから、今現在、自分を過信してしまっている人たちに対して、自分を正当化して、人を傷つけている人たちに対して、
「あなたは間違っています。そのような生き方は、正しくない。」
そんな風に、声高に主張することは、私には、できません。
私に、見ず知らずの他者の苦しみを全部請け負って、知ったような振りをして、なかったことにして、前を向いてください…などと、決して言えません。
だから、私は、願いを届けることにしました。
願いを放ち続けることにしました。
「愛」という言葉を笑い飛ばす人がいます。
馬鹿にしたように、鼻で笑う人がいます。
「そんなものは、ない。」
と思っている人もいます。
「目に見えないものは信じない。」
という人もいます。
「愛」は、完全に見失ってしまう前に、必死で探さなければなりません。
自己を探求し、人と自分との共通の和解策を目指す。
その先に見出せる、全ての人を納得させることができて、誰も傷つけることのない唯一の答えが、「愛」です。
「まず、自分ありき。」
「まず、他人ありき。」
どちらかに偏れば、道は閉ざされてしまいます。
けれど、探し続けたなら、道は、必ず、「愛」に続いています。
人を傷つけてしまった、と後悔している人へ。
今の自分から、よりよい自分へ変わることなどできる気がしない、と感じている人へ。
傷つけられたことを忘れられず、憎しみを癒せない人へ。
未来を嘆く気持ち、不安な気持ちで日々を生きている人へ。
私は、あなたが誰か、知りません。
あなたの傷が、どのようなものであったか、あなたがどのような日常を生きているか、私にはわかりません。
だから、一人一人の話を聞いて、全てを納得させられる力は、私には、ありません。
それでも、私は、あなたのしてきたこと、あなたの苦しみ、悲しみが癒えることを、これからもずっと、願い続けます。
その願いが叶えられるように、自分を律して、私自身も生きると約束します。
だから、苦しんだり、悲しんだりして、人を傷つけようなんて、自分を追い詰めようなんて、もう思わないで、本当の自分自身を探してください。
自分の中の愛を、信じてください。
自分を生かして、人を生かしてください。
「個性」「違い」は、全ての人が、必ずもっているものです。
「見た目」も「考え方」も、全ての人が、必ず、少しずつであっても、違います。
そして、それは、恐れ、手放すためにあるのではありません。
見つめ、気づくためにあるものです。
「人と違う自分を、どう生きるか。」
「自分と違う人を、どう生かすか。」
いつも柔らかな強さを、見つめて生きてください。
みんな、必ずできますから。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。