「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

こんにちは。

いかがお過ごしですか?





人は、人の輪の中に入れない人を見ると、または、人の輪の中に入らない人を見ると、



「なんであの人は、輪の中に入らないのだろう?」


と、思います。


そして、それを輪の中にいる人に伝えます。



それから、みんなで…



「なんで入って来ないんだろうね?」


「おかしいね?」


「おかしな人だね?」


「私たちとは、違うね?」


と、話します。



ほとんどの場合、なんで入らないのか、考えよう、答えを出そうとはしません。



そして、無理やり自分たちと同じスタンスで輪の中に入れようとするか、あるいは、拒絶し、批判します。



でも、輪の中に自分から入らない人には、理由があります。



それぞれの事情がある時もあるでしょうし、それぞれの理由がある時もあるでしょう。



それは、本来は、その人に選択の自由があるはずです。



そして、なぜ「入らない」という選択肢を選んだのかを知りたいなら、相手と同じ人数で、「知りたい」「わかり合いたい」という意思を伝え、そして、自分自身も心から「知りたい」「わかり合いたい」と望んでいなければ、決して、答えにはたどり着けないでしょう。



「人の輪」というのは、本来は、作るものではありません。



自然と広がってゆくものです。



自然と広がっていった時に、本当に意味のあるものになります。



作り出した人工的な輪には、目には見えなくても、壁や、天井のような閉塞感があります。


…不思議なものです。



輪の中に、


「入れてやってる」


という気持ちは、伝播します。



「入れてもらってる」


という気持ちを生み出します。



しかし、自然な形で出来上がっていった人の輪の中には、安心感と心地よさがあります。



それは、皆が互いに心を通わせ、輪の中にいる自分を楽しみ、自分以外の人を楽しませたいと、心から思えているからなのでしょう。



「社会」も、それと全く同じです。



いつ、どこで、誰と、何をしている時も、同じなのです。



いつ、どこで、誰と、何をしている時も、互いにそれを忘れずにいられたら、



いつ、どこで、誰と、何をしていたとしても、本当は大丈夫なのです。



人は、目の前で起こる一つ一つの出来事に対して、その都度、考え、対応しようとします。


それでは疲れてしまうのは当然です。



毎日、生きていたらいろいろな事が起こるでしょうし、それはきっと、「いい事」ばかりではないでしょう。



だからこそ、自分の源を、鍛えることです。



「何が起きても、大丈夫。」



な、自分を育てる。



そうやって自分を生きることを始めれば、必ず、「自信」が育まれます。



そうすれば、人のささやかな言動に振り回されない自分が育ってゆきます。



表面で起こることにとらわれず、本質を見抜き、他者を思いやる余裕が育ってゆきます。



その時に、必ず、忘れてはならないのが、自分自身の「おごり」、「自負心」と闘い続けることです。



知らず知らずの内に、必ず芽生える感情であるはずです。



一瞬の油断で、飲み込まれるほど、強い感情です。



そして、そこに飲まれたら、必ず、「自分」は腐敗してゆきます。



愛から遠のいてゆきます。



闘ってください。


私も、一緒に闘います。





「人の輪」の垣根を互いに「愛」を持って破壊したい。




壁や天井のように閉塞感のあるものに囲まれず、「空」のように果てしなく広がるもののように、「愛」で繋がれる世の中でありますように。





悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。


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