自分を見ていたのは…
こんにちは。
いかがお過ごしですか?
幼い頃、ふっと感じたことがありました。
「私は、誰かに見られている。」
と。
…突然このようなことから記事を書き始めたら、
「どうした?大丈夫か?」
と、思われてしまいそうですが。(笑)
ご安心ください。大丈夫です。
この感覚は、未だに、忘れることのできない感覚です。
以前も記事の中で書かせていただいたことがあるのですが…
私は、幼い頃からずっと、
「自分はなぜ生まれてきたのか?」
「自分とは、何だろうか?」
…そのようなことばかりを考えて生きてきました。
自分の存在を否定してしまった時期も少なからずありましたが、そこに固執することにより、
「自分が自分として生きる意味」
そして、
「自分として生まれた以上、他の誰かではなく、自分を生き抜くことの重要性」
を見失ってしまう危機感を感じてきました。
そして、
「私は、私として生まれた以上、この人生を精一杯生き抜くことが、必要なんだ。」
と気づき、それを現実に叶えてゆくことに集中できるようになりました。
幼い頃、
「誰かに見られている」
と感じていた感覚というのは、一番近い感覚を言葉で説明するとするならば…
「私たちの済む世界は、本当はジオラマのようなミニチュアの世界で、私たち人間のような、もっと遥かに大きな誰かが、私たちを上から操っているのではないか?」
そして、もう一つ。
「私が生きているのは、本当は夢の中で、自分が現実だと思い込んでいるのは、本当は夢なんじゃないか?」
とも、感じていました。
なんとも、不思議な感覚でした。
ずっと誰かに見られているような感覚の中、生きているというのは、時に「孤独」を煽るような感覚であり、「自由」を奪われているような「閉塞感」であり、時には、満たされているような「安心感」でもありました。
時に感じるその感覚の源を、私はずっと、探し求めてきました。
そして、「私を見ている人」が誰であるか、が年齢と経験を経て、次第にわかり始めてきました。
それは、「本来の自分自身」でした。
その人は、「愛そのもの」でした。
自分を見守り、導き、時には声を持たずに叱り、愛を願い、幼い頃からずっと、「私」に存在を訴え続けていました。
そして、私だけでなく、そのような存在が、全ての人にあることを感じてきました。
「罪を憎んで、人を憎まず」
人は、本来、「愛そのもの」として生まれてきたのだ、と、私は信じています。
自分の本来の姿で生きられないことの苦しみ、焦燥感、悲しみが、人々に罪を犯させるのだろうと思います。
「罪」は、とても大きな脅威です。
ですから、それを犯すまで、「本来の自分」の声にならない声を無視することは、とても重い意味を持ちます。
「死刑」、「無期懲役刑」という法の裁きがくだされるのは、その人の「寿命」を強制的に止められる、という、不可思議な誰かの意志であるように、私は思います。
「公正は見込めない。」
「あなたの命は、ここで止めます。」
と、自然の摂理に乗ることを、強制的に遮られているのだと。
しかし、そのような実刑がくだらずに、長年の刑期を終え、出所する重罪人も沢山います。
この人たちが、再び重い罪を犯さぬようになってもらうためには、罪を悔いてもらうためには、犯罪者を
「憎み続けること」
ではなく、犯罪者に
「愛を取り戻してもらうこと」
しか、方法がないのです。
悲しみが大きければ大きいほど、憎しみを、愛に変えて世の中に流してゆくことでしか、世の中を変えてゆくことはできないのです。
それを、一人一人の人が気づけるようになるまでは、この世から悲しみは消えないでしょう。
逆を言えば、一人一人の人が、精一杯自分を生きられるようになれば、この世から、悲しみが消える日が来ることも、不可能ではありません。
「あなたは、どちらを選びますか?」
私は、悲しみが消える日を願い、そのための日々を自分の現実の中で精一杯、生きます。
実際に、命や性を軽んじられた結果、尊いものを奪われた犠牲者の方々の悲しみが癒えることを、切に願います。
そして、私の記事の文中の言葉から、もしも気分を害される方がいらしたら、申し訳ありません。
それは、ひとえに、私の語彙力不足、経験不足、理解不足によるものです。
悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。