真逆の発想
私の目指すところ。(笑)
こんにちは。
いかがお過ごしですか?
突然ですが、私は、最近、休日にはあまり筆が進みません。(笑)
ブログに綴る言葉が、浮かびにくくなります。
私は、ごくごく平凡な日常を生きています。
それでも、外へ出て、様々な人に触れ合う中で、いろいろなことを感じて生きています。
その感覚は、「一人」では決して経験できないものでもあります。
人との触れ合いを通して得られる様々な感情、葛藤は、とても貴重であるように思います。
そこから沢山の学びや気づきを得られます。
最初にこのブログを始めると決めた時、このブログは、できる限り継続しようと決意しました。
自分と、固い約束をしました。
私の、今の自分の課題は、
「継続」
だからです。(笑)
とにかく、一度決めたことを、途中で投げ出すことなく、また、自分の感情に惑わされることなく、やり続けるということが、私の当面の課題です。(笑)
もちろん、ブログの内容が最優先ではありますが、それがいっときの浅はかな感情に左右されるべきものではない、という覚悟をもって始めました。
根気強く、人を癒して、強く強く励まして、自分自身が「愛そのものとして生まれてきたこと」を思い出してもらおうと、決心しました。
ですが…
多くの人の、ブログへの向き合い方を拝見していると、時々不思議なことがあるのも正直な感想でして。
私は、「ブログ」という媒体を、「自分の意思の主張の場」と捉えて始めたのですが…
ブログとは、多くの方に見ていただけて、なんぼのものである…という風潮があることに漸く気づき始めました。(笑)
そのための創意工夫を凝らさねばならぬものである…との風潮にも。
ところが、私には、その気が一切ありません。
ですから正直、私のブログを見てくれている人は、とっても少ないです。(笑)
それでも私は、このブログを、いつか縁のある方に見つけてもらって、本を書かせてもらうことが夢です。(笑)
自分自身が「愛そのものとして生まれてきた」ことを心から理解して、自分を思いやり、人を思いやって生きることの大切さを知る。
周りにそのような人がいなかったり、いても気づけなかったりすることって、沢山あると思うんですよね?
だったら、「ブログ」という媒体の中での顔も名前も知らない人の言葉なら、先入観を持たずに受け止めてもらえるような気がしました。
私は、そのための思考法や、人格形成のための糸口を提案したり、今ある苦しみからの解放のための土台作りを手伝いたいのです。
自分の主張を読んでもらえて、受け取ってもらえて、きっかけになりたいのです。
私のしたいことは、それだけです。
だから、相手が何人でも、込める思いに強弱はありません。
モチベーションは、常に「フル」です。(笑)
おそらく、私のブログを読んでいただく方々にとっては、私の言わんとすること、私がブログを続ける理由、私のしたいことって、伝わりづらいのではないかと思いました。
「で、この人結局、何がしたいの?」
「何を目指してるの?」
…みたいな?(笑)
私の目指しているものは、みなさんの心の平穏です。
そのために、いつも前向きで、心を穏やかにしてもらえるような言葉を選び、綴っています。(笑)
様々なケースを克服するための方法って、意外と情報の中には溢れているように私は思います。
でも、「土台」や「基礎」、「源」…どれも同じような意味ではありますが、自分の基盤を作るための方法って、実は、情報が限られているものでもあるし、よほど探さない限り、巡り会えないものであるように思えます。
実は、一番大切なものであるにも関わらず、です。
つまり、それが必要な人…日常的に、理解されにくい人、誤解をされやすい人、傷つけたり、傷ついたりしやすい人、みんなを、私が、理解して癒したい。
そして、それから力を取り戻してもらって、今度はそれを、自分の生きる現実の中で、また別の人に繋げていってほしい…
と、いうことです。(笑)
自分の意思を主張する場だと言いながら、自分の意思を再三に渡って繰り返している、ということは…
私自身もまた、人と比べるという意識から抜けきれてはいないのでしょうね。(笑)
もっと強くなりたい。
今日は、そんな風に思いました。
人間の「欲」というものは、実に強い生命力を持っています。
それを痛感し、自分の軸に上手く馴染ませながら、その力を利用し、飼い慣らすくらいの気概がなければ、一瞬で飲み込まれてしまうであろう危機感を、再認識しました。
愛に溢れた、豊かな未来を願います。
祝日の今日、沢山笑いましたか?(^-^)
みなさんが穏やかに過ごされていますよう、陰ながらお祈りしております。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。
弱音
こんにちは。
いかがお過ごしですか?
自分が、誰かに対して、一番、愛を示してあげられることがあるとしたら、それは何でしょうか?
一緒に悩んであげることでしょうか?
一緒に泣いてあげることでしょうか?
一緒に苦しんであげることでしょうか?
身代わりになってあげることでしょうか?
もしも、
「死にたい。」
でも、自分の力では死ねない。だから、
「殺してほしい。」
と言われたら、その人のために犯罪者になる覚悟で、命を奪ってあげることでしょうか?
世間では、そのような悲劇を美談のように語る時もあります。
でも、私は、そうは思いません。
人の、一番奥深くに隠されている本当の愛とは、きっと、キラキラ輝くダイヤモンドのように、硬くて、強くて、眩いばかりの光を放っている力だと、私は思います。
人に対して、「本当の愛を示す」とは…
「その人の進む道を、光で照らすこと」
であると、私は思います。
一緒になって弱気になるのではなく、本人が申し訳なくなるほど、共に傷をいたむのでもなく…
いつも変わらずに、凛としていること。
その姿をもって、その在り方を示すことで、人を光へと導くこと。
その為には、一朝一夕では、叶いません。
しかし、強い意志を持って始めれば、必ず、いつの日か、叶えられます。
多くを語らずとも、また、人に媚びへつらうことなどしなくとも、人に自分の強さをひけらかしたりなどしなくとも、その生きる姿勢は、自分からやがて滲み出てくれるようになります。
時には弱気になりながら、それでもまた、自分を信じるための日々を生きる。
不完全である自分を理解しながら、それを補ってゆくための日々を生きる。
その生きる姿勢は、人を、照らします。
自分の弱さを知りながらも、自分に言い訳をしない道を選んでゆく姿は、側にいる人の心を動かします。
悲しい思いをした時に、
「悲しい。」
と言うのは、簡単です。
寒い日に、
「寒い。」
と言うのと、同じです。
口に出して、何かが変わるのならば、いくらでも口に出した方が良いでしょう。
しかし、口に出しても、何も変わらないのなら、口には出さない方が良いでしょう。
自分の弱気を、人に示すだけですから。
そのようなことをしても、自分が更に苦しむだけです。
自分の弱音を、自分の耳で、自分への評価として、聞かせることになりますから。
傷つけられて、腹が立って、悲しくて、どうしようもない時にこそ、
「何くそ!!弱ってたまるか!!」
と、歯を食いしばって、耐えてください。
誰かが発している光を感じたら、眩しさから目を背けることなく、受け止めてみてください。
真っ直ぐに見つめて、考えて、受け止めてください。
必ず、自分のためになります。
自分への言い訳は、もう充分聞き飽きたのではないですか?
私は、もううんざりしました。(笑)
それでもまた、何度でも懲りずにやってくる自分の言い訳を、叱りつけながら、お尻を叩いて、頑張ろうと思っています。
どれほど強そうに見える人でも、たくましく見える立派な人でも、きっと、胸の中は大差ないんじゃないかと、思えてきました。(笑)
それでも、頑張ろうとしている前向きさが伝わるから、その姿勢に人は、勇気付けられているのではないですか、ね?
完璧を目指しても、手が届かぬことを知りながら…
それでも、完璧でありたいって、自分を励ましながら生きることこそが、人生の醍醐味なんじゃないですかね?(笑)
なんとなく、そのように思いました。
羽生さんが負けたから、そう思ったのかもしれません。
「勝って奢らず。負けて腐らず。」
ただただ、立派です。
やはり、人生において一番大切なことは、「結果」ではなく、「過程」なのだと、改めて考えさせていただきました。
今日は日曜日。
みなさんが穏やかな日を過ごされますよう、心から願っております。(^-^)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から感謝致します。
☆これは昨夜の夜空です。昨日は、日中あまり天気が良くありませんでしたが、代わりに、夜空に浮かぶ雲がとても綺麗でした。
チャッピー
おはようございます。
いかがお過ごしですか?
私には、忘れられない飼い犬がいました。
名前は…「チャッピー」といいます。(笑)
ポメラニアンという犬種の、オス犬でした。
私が小学校の高学年の頃、両親にチャッピーを買ってもらいました。
知り合いの、そのまた知り合いの家で産まれたチャッピーは、生まれつき未熟児で、とても小さかった。
一緒に産まれたのは、チャッピーの他にもう一匹だけでした。
もう一匹はメスで、チャッピーとは比べものにならないくらい、大きな身体をしていました。
栄養のほとんどを、もう一匹の子にあげてしまったのではないか、と思えるほど、二匹には産まれながらにしてギャップがありました。
「チャッピー」
という名前は、私が付けたのではありません。
子犬を家に連れ帰り、
「名前は何にしようかな〜?」
と、楽しみながら考えている間もなく、翌朝になると、父親によって命名されていました。(笑)
これは、我が家では毎度の茶番であり…
本当に、もっと幼かった頃は、自分のための愛犬の名前を勝手に決められるのは嫌だと泣きながら訴えたものでした。(笑)
しかし、父親の決定は、毎回、絶対に覆ることはありませんでした。
我が家で飼った犬たちの歴代の名前は…
「チャッピー」
「ラッキー」
「リッキー」
…全て、父親による命名です。(笑)
余談ではありますが…
このルールは、私の一人息子の命名の際にも適用されました。
まさか、人の名前をつける時にまで…とは思いましたが、覆すことはできませんでした。(笑)
私は、息子が生まれる前から、子供に付けたかった名前がありました。
「玲央(レオ)」
という名前です。
特別な意味を込めて考えたわけではなかったのが災いし、自分の意向を最後まで通せなかったことが、悔やまれます。
産婦人科での出産を終え、無事に実家に里帰りした翌日…
「名前がないのは、可哀想」
との理由により、我が子は、
「慎太郎」
と名付けられていました。
…石原慎太郎氏から頂いたらしき名です。
子供は1人しか産んでいませんし、父親も、今となっては他界してしまったため、正確な理由や、名前に込められた意味さえ知ることは叶いませんが、私には未だに、もし、もう一人男の子を産んでいたら、その子の名前が、
「裕次郎」
になっていたのか…、知りたくなる時があります。(笑)
話が逸れてしまいました。
申し訳ありません。
チャッピーは、私にとっても懐いてくれました。
誰かがふざけて私をぶとうとしたりする真似をすると、小さな小さな身体で、私を守るために、必死になってくれました。
成犬になっても変わらずに、本当に小さかったので、いつも、コートの胸元にしまって出かけたりしていました。
外で、リードを外してあげてから少し離れて、
「チャッピー!!」
と呼ぶと、身体を少し斜めにしながら走る独特の走り方で、全力で私の所まで駆け寄ってきました。
小さな小さなチャッピーは、いつも、私の一番大切な親友でした。
最期の夜、階段を上って二階の部屋で眠る前に、階段下のゲージの中にいたチャッピーの視線を感じて、途中まで上りかけていた階段を下りて、チャッピーの側に戻りました。
その時見た、瞳が、私は忘れられません。
チャッピーは、少し震えながら、潤んだ目でジッと私を見ていました。
「お前は本当にかわいいねぇ。」
と言って、頭を撫でてから、私は二階に行き、眠りました。
朝起きると、チャッピーはもう亡くなっていました。
私は、亡くなったチャッピーに、その当時一番大切にしていたポーチをプレゼントしました。
私の無二の親友は、未だに、私にとっては、「一番」です。
最高の、「相棒」でした。
だから私は、二度と、「ポメラニアン」は飼わないと決めました。
と、いうよりも、自分の意志では、犬は飼わないと決めました。
私は、チャッピーにもらった山程の溢れる愛を、忘れたくないから。
小さくても、短くても、どんな命にも、「愛」が詰まっているのですね。
今さらながら、考えさせられます。
与えてもらった、沢山の愛に支えられて、自分がここまで生きてこられたことに感謝しかありません。
自分も、誰かに同じようにしてあげられたら。
今日は、何となく、目覚めてすぐに、「チャッピー」を思い出しました。
そして、読んでいただく方に、自分の側に在る「愛」を受け取っていただけたらな…と思いました。
私の話を通して、忘れていた、見つめようとはしていなかった「愛」を思い出すきっかけになっていただけたら幸いです。
失ったものばかりじゃ、ないですよね?
きっと。(^-^)
失った時間、今はいない命、その中から得られたものを自分の糧にしてゆく意識を、大切にしてください。
そこを見つめることも、忘れないでくださいね?…
きっと、忘れてしまっている記憶の中に、今の自分を救ってくれる糧が、あるはずです。
それを、自分で探して、受け取って、自分を育ててゆけるきっかけになるかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。
エール
こんにちは。
いかがお過ごしですか?
良かれと思ってしたことに、もしも相手からの感謝を得られなかった時…
どのような気持ちになりますか?
ガッカリしたり、悲しくなったり、虚しくなったり、腹が立ったり…
きっと、ほとんどの人が、そんな気持ちになりますよね?
でも、それは元を正せば、自分が相手を思って、
「してあげたかっただけ」
自分なら、そうして欲しいと思うだろうと思って、したこと。
だから、相手に感謝されなかったとしてもいいのです。
もしも、逆に、相手が腹を立てたとしたら、それは、
「やりすぎだった」
と考えてみましょう。
子供ではない人に、まるで子供に接する時のように、弱い人に接するかのように、その人の力になろうとしてしまったら、それは、相手を信頼していないと、伝えているようなものです。
いくら自分が、そうしてもらえたら楽だろう、と思ったとしても、その思いのままに動いてしまったら、それは、「依存」への手助けになってしまいます。
「自分」が、誰かの代わりに、その人の人生を生きてあげることは、絶対にできません。
だから、自分が誰かのためにしてあげられることがあるとすれば、それは、その人に「自信」を持たせてあげること。
そして、その人を信頼していることを、できる限り、伝えてあげること、だと私は思います。
自分に、その時何かしてあげられることがあったなら、それは、全て「自己責任」の元、感謝の気持ちすらも受け取れない覚悟で、与える。
それを必ず、自分自身も忘れずにいるように心掛ける。
物質的に与えることが、自分にとって不可能であるならば、何よりも相手に「共感し、理解し、そして、前向きな言葉を掛けてあげる」こと。
「あなたなら、大丈夫。」
と、心から信頼して、一緒に前を向いてあげること。
嘘や、偽りは、必ず相手に伝わります。
慰めだけの言葉ならば、何も言わずにただ、黙って側にいてあげるだけの方が、ずっとマシだと私は思います。
全ての人に生まれつき備わっているであろう「共感力」を、決して、見くびらないでください。
「この人にならいくら酷いことをしても大丈夫だろう。」
「この人にならいくら甘えても大丈夫だろう。」
相手が発する、そのような感情に、人は皆、気づいています。
そして、真実の相手の本心を確かめようがなかったとしても、常に、そのように考えながら生きることが大切です。
間違えないでほしいことがあります。
そのように、自分を律しながら生きることを、皆、難しいこと、大変なこと、と考えてしまいがちです。
しかし、幸せを感じながら生きるためには、絶対に欠かせないことでもあります。
そして、そのように生き始めると必ず、自分の中で、心の奥に掛かっていたモヤが晴れてゆくような、清々しさを感じられるようになっていきます。
だから、本来は、決して、難しいことでも、大変なことでもないのです。
真っ直ぐに生きることこそが、人が生まれる理由で、その意志に背き続けることこそが、「不幸」だから。
人に期待をするのなら、その人が、自分自身の意志で、自分の人生を生き抜いてくれることを期待しましょう。
自分が相手にしてあげたことに見返りを求めている内は、自分が与えられたものは「偽善」でしかなかった、と、忘れずにいましょう。
そして、自分が本当に相手のためを思ってしたことであっても、後から見返りを求めていた気持ちが湧いてきたり、それに気づいてしまった時には、決して自分を責めず、
「それなら、どのようにしてあげたら良かったのだろう?」
と、別の解決方法を探してみてください。
全ての人が、本当は相手のためにしてあげたかったことを、誤解されてしまったり、きちんと受け取ってもらえなかったり、相手のためにならないことを選んでしまった経験を持っていると思います。
「過去」は、後悔するためだけにあるのではありません。
その時の自分には、それが精一杯だった、ことを、受け止めてあげましょう。
そして、これから先は、同じことを繰り返さずに済むように、明日の自分が、今日の自分を誇らしく思ってくれるように…
また、前を向きましょう(^-^)
最後に。
「成人」
とは、
「人に成る」
と書きます。
成人する前の、未来を担う子供たちに対しては、惜しみない愛を、注いであげてください。
親や周囲の大人たちからの愛に対して、「依存」から卒業するのを決めるのは、子供たち自身の意志によるタイミングです。
子供たちが、自分の手を離そうとした時、それが「無理をしているのか」、「自立へのチャレンジ」であるのかを、ちゃんと把握してあげられるように、いつも心を感じてあげていてください。
そして、子供が、自分の意志でその手を離そうとした時には、心から「信頼」してあげてください。
その時、信頼してあげられるように、日々、関わってあげてください。
愛を繋いでいってくれる人たちに、惜しみない、真っ直ぐな愛を、教えてあげられる人でいてください。
私も、頑張ります。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。
☆今日の空には、雲が一つもありませんでした。(笑)
青一面の写真は、少し不思議ではありますが、決して、ミスではありませんので…あらかじめご了承ください。(笑)
夢
こんにちは。
いかがお過ごしですか?
私はよく、自分を励ますために、自分の人生が終わる瞬間を想像してみます。
…私には、夢があります。
「I Have a Dream」
マーチン・ルーサー・キング・ジュニアも、たしかこのような言葉を言っていましたね?
私の夢は、彼のように立派ではありませんが…
私の夢は、本当にささやかで、もっと利己的なものですが。(笑)
それは、
「たった一人でいい。私を心から愛してくれる人に、手を握られて、微笑みながら人生を終えること、です。」
「あ〜、いい人生だった。」
と、微笑みながら。(笑)
それが、私の夢です。
私には、欲が、ほとんどありません。
お金は、生きていく上で必要な分だけ、あればいいです。
(実はそれが一番難しいのかもしれませんが…)
宝石にも、興味がありません。
味覚も、音痴かもしれません。(笑)
毎日、毎食、同じメニューを食すことにも、抵抗はありません。(笑)
見栄も、ほとんどないと思っています。
「女性」ですが、「若さ」への執着も、なくなりました。(笑)
人を羨む気持ちや、人と比べる気持ちは、少なからず、以前の私にはありましたが…
今は、正直、ほとんどありません。
老いてゆく自分も、現実として受け入れ、楽しもうと思っています。
私が、私らしく微笑んでいる顔を、何よりも一番大切に思えるようになったからです。
それを、美しいと言ってくれたり、思ってくれる人がいたら、きっと、その人は、「本当の私」を見てくれているのだろう、と思えるようになりました。
そして、そのように思ってくれる人のためにも、私は、いつでも、どこでも、自分を誇れるように生きる、と決めました。
その人が見ていてくれない時でも、私は、私の日々の行いを全て知っているからです。
もしも、人から誤解されても…自分がその人に迷惑を掛けたり、その人を傷つけたのでなければ、それ以外は、何を言われようと、どう思われていようと、それが真実ではないことを私は知っているので、構いません。
よく、「変人」と、言われます。
「修行僧みたい。」
とも言われます。
…自分でも、時々そう思います。(笑)
全ての人にとっての、確かな事実として…人が死ぬ時には、
学歴も、地位も、名誉も、お金も、宝石も、何も持っては行かれません。
全てを失って、手離して尚、自分の心に残るものは何でしょう?
私はきっと、
「愛」
だと思います。
最期の時、自分の心を占めるのが、
「愛で満たせなかった人生への後悔」
であるのか、それとも、
「愛で満たされた幸福な思い出」
であるのか。
それは全て、
「今」
に掛かっています。
1分、1秒でも早くそれに気づき、「今」を生きられるようになれば、「幸せ」を、より多く見つけられるようになります。
一人でも多くの人がそれに気づいてくれれば、世の中は大きく変わります。
悲しい事件も、いつかきっとなくなります。
悲しむ人も、いつかきっといなくなります。
そんな日が来ることを、今日も願います。
「あ〜、いい人生だった。」
と、微笑みながら人生を終えられるよう、生きてみましょう?
ゴールを迎えるその時まで、のんびり、ほっこり、温かく、柔らかく、そして、強く。
自分のために。
みんなのために。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から、感謝致します。
素直
こんにちは。
いかがお過ごしですか?
一人でいれば、傷つけられることはありません。
人に会わなければ、嫌な思いをすることも、感情を惑わされるようなことも、きっとないのでしょう。
それでも、なぜ、人は人と言葉を交わし、人と関わってゆくのでしょう。
傷ついても傷ついても、人を愛そうとするのでしょう。
愛する人を失うと、悲しいのでしょう。
それは、自分にとって、「愛」がとても温かな栄養であることを知っているからではないでしょうか?
「わかり合いたい」
という、無意識の欲求があるからこそ、
「わかり合えない」
ことが、苦しいのではないでしょうか。
自分の本当の欲求、願望は、実は、自分が考えていることとは、真逆であるのではないでしょうか。
人は、「素直」に生きる時、本当に満たされるものなのではないでしょうか。
真っ直ぐに生きる時、人は、自分を認め、自分を許し、自分を愛してあげられるようになるのではないでしょうか。
そして、それと同じように、誰かを愛せるようになるのではないでしょうか。
過去は、大きな意味を持っています。
たしかに、とても強い「恐怖」や「悲しみ」を何度でも自分の目の前に突き付けてきます。
それでも、自分を支え、何度でも励まし、挫けないで、素直に前を向く。
やがては、その傷を乗り越え、大切な人に、真っ直ぐに愛を届けるために。
強がることにも、疲れ切ってしまう日が来ます。
自分に嘘をつき続けることは、誰にもできないことだから、です。
そんな時には、空を見上げて、深呼吸をして、ゆっくり自分を見つめてあげてください。
弱い自分も、強がりな自分も、素直にはなれなかった自分も、傷を見つめることしかできず卑屈になっていた自分も、その全てをひっくるめて、「自分」です。
この世にたった一人しかいない、大切な「自分」です。
本来なら、誰よりも一番、理解してあげられる人です。
そして、なによりも、それを一番望んでいる人です。
自分を大切に。
そして、誰もが、それと同じだけの意味のある命だということを、決して忘れずにいてください。
難しい現実に疲れて、考えることが嫌になってしまったり、すぐには解決できないような壁に直面して、何もかもを投げ出してしまいたくなるような時には、「当たり前のこと」が、「当たり前である理由」を探してみてください。(笑)
人間の源にあるエネルギーを、素直に受け取ってください。
そして、落ち着いて、ゆっくり過ごしてください。
朝はきちんと起きて太陽の光を浴び、ご飯をしっかり食べ、夜になったら温かなお風呂につかった後、ぐっすりと眠ってください。
そして、元気になったら、今度は、「自分と向き合うこと」、そして、「過去を乗り越えること」に、挑戦してください。
悲しむ人が一人でも減ってくれますように、今日も願います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
心から感謝致します。