「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

人は自分の鏡

おはようございます、いかがお過ごしですか?(^-^)




「人は自分の鏡」


と言います。



なぜ鏡であると思いますか?…





「人の振り見て我が振り直せ。」


という言葉もあります。


自分以外の人の振る舞いを見て、自分自身の行いを振り返ろう…もちろん、そのような意味も含まれていると思います。



そして、



「自分自身の振る舞いが、他者に及ぼしている心理的影響力を、みくびってはならない。」



という意味も含んでいると思います。



「自分自身の心が感じていること、頭が考えていること、それらが、あなたの立ち居振る舞いとなって、相手に伝わっていますよ。」



だから、


「相手の今の振る舞いは、あなた自身が先に行ったことにより引き起こされたものかもしれない。」



そのように考えて、身を引き締めることをお勧め致します。(笑)



人と向き合う時、緊張感を持って、ガッチガチで向き合ってください…なんて、決して言いません。(^-^)



自動車の教習所に通っていた時、教官がおっしゃっていました。



「だろう運転」ではなく、「かもしれない運転」をするように、と。




他者との関わり合い、物事へ対しての向き合い方も同じだと思います。



「だろう」と、自分の推測により決めつけるのではなく、「かもしれない」とやんわり受け止めて、推測の域を脱しないことは、それが推測に過ぎないことをしっかりと受け入れ、様々な他の可能性を追求し、そして、自分をなだめ、受け入れてゆく。


と、同時に、「かもしれない」という、自分の想像の域を広めてゆく。



それらの修練により、自分の心のゆとりを見つめ育んでゆく。



そんな生き方を目指して欲しいと願います。





「人は自分の鏡」


とは、そのような意味を、私たちに教えてくれているのではないでしょうか?(^-^)





「言葉」とは、その言葉に込められた意味に自分なりの解釈を加え、噛み砕き、味わうことにより、意味を深めてゆく、実に不思議な…まるで生き物であるかのように思います。



だからこそ、その取り扱いには充分注意していかなければならないのかな?と、改めて考えさせられます。



言葉に込められた数々の語り手の思いを真摯に受け止め、それらを自分の糧にして、生きていきたいなぁ、なんて、しみじみ思いました。




そして、「自分らしさ」を探しながら、それを相手に伝えてゆけるように、それが伝わって、相手の顔にパーっと笑顔が広がるような自分でいつもいられるように、毎日、一生懸命生きよう、と強く思います。






悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。(^-^)


「自分」という人

こんばんは、いかがお過ごしですか?



「自分を大切にする」


ということは、


「自分を甘やかす」


ということではありません。



そして、


「自分を律する」


ということは、


「自分に厳しくする」


ということではありません。




人は往々にして、その言葉の意味を誤解しているように思えます。





「自分を大切にする」


ということは、自分の心の素直な声に耳を澄まして、その言葉を受け入れてあげることではないでしょうか。


それは、良い感情ばかりではないのかもしれません。


そのような時には、自分の心と折り合いをつけるために、よく考えて感情を感じ切る必要があります。


自分の中にわき起こった負の感情から目をそらさずに、じっと見つめて、自分自身に説明して、解決してあげることが必要です。


なぜ、その感情が「負の感情」であるのかを、よく見つめるのです。


「負の感情」がわき起こる原因のほとんどが、その時起こっている事柄の原因を他者にあると決めつけているからではないでしょうか。


しかしながら、私は、こんな風に思います。



ある出来事をとらえた時、それを引き起こした加害者が、偶発的に、無作為にその対象を選別して引き起こした出来事以外は、対象となった人物にも、何らかの非があったと認めざるを得ないのではないか…と。



単純に説明するとしたら、


誰かに好かれるとしたら、それは、その人が相手にとって、何らかの好意的な印象を与えたからであり、またその反対に、誰かに嫌われるとしたら、それは、その人自身が相手に対して、何らかのマイナスのイメージを与えてしまったからではないでしょうか?



それがどこであるかに気を取られるよりも、また、それが誤解によるものであったとしても、それは恐らく、自分の心の奥にある一点の曇りが表面化したものです。





「好かれる」ということは、とても嬉しいことです。


しかし問題なのは、


「嫌われた」時です。


そのような時には、自分も相手を嫌ってしまったり、するのではないでしょうか。


でも、一瞬立ち止まって考えてみてください。


何もしていない人を嫌う人がいるでしょうか。


なかなかいないと思います。


「無関心」ならわかりますが、「嫌う」ということは、その人が「意思」を持って行っていることですから。



私は、そんな時、自分自身を振り返ってみてほしいと思います。



なかなか難しいことかもしれないけれど、そうやって自分を少しずつ慣らしていってあげると、次第に、人を思いやる気持ちが芽生えてゆくからです。



と、同時に、誰かに嫌われてしまった自分の中にある負の要素を改善してゆく心構えができるようになったり、自分自身の問題を誰かのせいにして何も解決できないという負の連鎖を断ち切る勇気がわいてくるはずです。



自分の中の一点の曇りすら逃さずに改善してゆこうとする時、人は強くなります。


人の言動に振り回されることなく、自分に立ち向かう強い意志がそこに芽生えるでしょう。


そこからが勝負です。


毎日毎日、自分と向き合ってください。

自分を知り、理解してください。



「自分」を生きる時、一番大切なことは、まず、「自分」の中の問題点を探し出し、それを改善すべく生きることです。



はっきりと「自分」と「他者」を区別し、譲れることと、譲れないことを見極めましょう。


曖昧に人に流されることなく、自分の中心にある軸を大切に。


けれど、人に対しても、愛を抱くことを忘れずに。



それがきっと、


「自分を律する」


ということであるはずです。




時には自分を叱り、励まし、毎日を一生懸命生きましょう。



私も、頑張ります。(^-^)






最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から、感謝致します。


取り残されているわけではありません、きっと。

こんばんは、いかがお過ごしですか?



ふと、車を運転しながら考えていたことがありました。






私たちは、加齢と共に、自分自身が退化していっているのでは…と誰しもが思うことなのではないでしょうか?


そうして、自分の周りの人や物、世界に取り残されてゆくような、そんなもの悲しさを覚える時が。



私自身も、時折そのような寂しさに、ふっと襲われる時があります。(笑)



でも、よくよく、よ〜く考えてみました。



世の中や、自分の周りのスピードがぐんぐん上がって、自分がもしもそのスピードに置いていかれてしまっているとしたなら、必ず、その加速には、限界がくるはずなのでは?…と、思いました。(笑)



この世の中は、加速と減速を繰り返しているはずだ、と、私は思いました。



時間という概念は、一般社会においては、全ての人にとって共通の概念です。


すなわち、目盛りは、一定であるはず。



しかし、その目盛りを「多い」と捉えるか、「少ない」と捉えるか…



はたまた、「速い」と捉えるか、「遅い」と捉えるかは、自分の年齢や、体力、見た目などとは一切関係なく、単なる、意識の違いなのではないか…と。



つまり、生まれた時から、成長してゆくにつれ、自分なりに築いた「時間」という目盛りは、時代と共にある一定期間、早められてゆき、その後、次第にまた緩められてゆくのが世の中の傾向であり、それを何度も繰り返していて、自分が生まれてから慣れ親しんだ時間の流れ方とは違う傾向に入ってゆくと、人は、世の流れに取り残されているような錯覚を起こしてしまうのではないか、と思ったのです。



長々と、何を話したかったのか…と申しますと…、私たちは、加齢と共に、死へと近づいてゆく焦燥感や、得体の知れない恐怖との闘いを始めます。



その時に、何を根拠としているかと言えば、

それは恐らく、自身の老化してゆく肉体や精神を日々、目の当たりにしているからなのでしょう。



しかしその変化は、樹齢を判別するための年輪のようなもので、決して、悲観するための要素ではないように思えるのです。



年輪の刻まれた自分の顔を、


「老いて醜いもの」


と恥じるのは、可哀想だなぁと。



と、同時に、決して、世の中に取り残されているわけではないのだから、自分なりの生きるスピードを大切にしなくては、と。



周りを見渡せば、若々しく、輝いている子供たちや、青年が沢山います。



彼らを妬ましく思ったり、眩しがっているのではなく、私は、「自分」として、これまで頑張ってきてくれた我が身に感謝し、いたわり、これからも自分自身を見つめて生きていきたい。




「尊重」


という言葉は、ありとあらゆる場面で、その本来の意味を、私に示してくれます。



そして、今日も明日も、決して臆することなく、また恥じることなく、生きてゆくようにと、私をたしなめてくれます。



恐れる気持ちが芽生えたら、どうすれば、その恐れに立ち向かい、乗り越えることができるのか。



どのように考え、自分を納得させられる答えを導き出せるのか。



自分のことも、他者のことも、「尊重」という視点を忘れずにいれば自ずと、答えはぼんやりとでも、現れてきてくれます。



すると、恐れや焦りは、知らず知らずのうちに影を潜め、また、笑顔を取り戻せます。



「愛」を、ぼんやりとでも、感じることができるはずです。




さて…


明日からも、また、頑張りましょう。(^-^)




なんとも陳腐なまとめで、申し訳ありません。(笑)




悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。


パワーバランス

こんにちは、いかがお過ごしですか?



男性は、強い。

女性は、弱い。



私たちは、誰もが皆、そのように知っているはずです。



「力の強い者が、弱い者を守る。」



それは、人として、理想的な姿であると思います。



傷つけていい人などいないし、また、傷つけられていい人などいない。



私は、そう思います。



それでも、互いに生きる環境の中での「違い」を、多かれ少なかれ、持ちながら生きてゆくしかない私たちにとっては、「事情」というものがありますよね?



その互いの事情に配慮しあい、譲り合い、支え合い、信頼しあい、生きてゆかねばと、改めて気づかされました。



これは、男女の間に関わらず、生きてゆく上で関わりあう全ての人に対して、です。



自分が、目の前にいる相手よりも強いか、弱いか…は、年齢や、性別や、立場や…そのような、目に見えるものからは容易に推測することはできません。



その人の生い立ちや、経験、過去の傷、トラウマ、現在の悩み…そのようなあらゆる、その人を構成しているものによってもまた、目に見えない互いのパワーバランスや、優越は、変わるものだからです。



それは…相手が、明らかに、立場としては自分より上位にあったからといって、会話の中の些細な一瞬により、目には見えないパワーバランスが変化している場合もある、ということです。



少しわかりづらい表現かもしれないので…補足説明をします。



たとえば、上司から、自分の犯したミスを責められている…とします。


その時、相手が発している言葉の中から、キーワードを探すように、よく話の内容を深掘りしてみてください。


必ず、そこに、その人の何らかの意図が含まれています。



それは、人それぞれ違うので、良い悪い、とは一概には言えません。



人によっては、過去に自分が犯した過ちを振り返り、目の前の相手に対して、それと同じ過ちをして欲しくない…という想いを込めている場合もありますが、別のケースでは、自分と同じようなヘマをすればいい…と心の奥で思っている場合もあるでしょう。



実際には、その真意は、さほど問題ではありません。



その判断や解釈は、自分なりに行い、消化すれば良いことだからです。



問題は、その相手の言葉の真意に気づいてしまった時、それを相手に確かめたり、指摘する…という行為が、相手を怒らせることに直結してしまう可能性が高い、ということです。



真意には、気づかなければならない、しかし、それを指摘してはなりません。




私には、昔から持論があります。



「人は、本当のことを言われると怒る。」


と、いうことです。




自分で気づいていながら、人に知られたくないことや、また、隠しておきたいこと、自分が思っている自分自身のネガティブな要素を指摘されると、人は、激しく抵抗します。



以上を踏まえた上で、まとめると、




人の話の中からは、キーワードとなっている言葉を探し出し、それを包み込むように、癒すように会話を進めてゆけば、必ず、その怒りを鎮めることができる、ということです。



そして、そうすることにより、また、実際のそれ以降の関わり合いの中でそれを証明してゆくことにより、人と人は、「信頼関係」を育んでゆける、ということになります。





「口は災いの元」


と古くから言われているように、言葉というものは、沢山の誤解を招いてしまうものです。



言葉は、コミュニケーションの、一つの指標に過ぎないことを、忘れずにいましょう。



きっと、全ての人に経験があるはずです。



自分の発した言葉の真意を汲み取ってもらえずに、悲しい思いをしたことが。



そして、それは、自分以外の人もまた、同じはずなのです。



だからこそ、相手の言葉そのものに反応し、左右されるのではなく、そこに意味を見出し、自分なりの解釈を加え、それを相手の望みに沿うような形で叶え、実践してゆくことが大切です。



決して、相手の希望通りに生きてください、と言っているわけではありませんので、その点はご注意ください。





久しぶりのブログの更新で、正直、あまりまとまりのある文章を書けている自信はありません。(笑)



また、少しずつ再開してゆけたら、と思っておりますので、よろしければ、お付き合いください。(^-^)



自分自身の均衡を保つためにも、また、自分自身を振り返り、内省し続けるためにも、必要な環境であることはわかっていながら、しばらく目を背けていました。



その間に、私は、少し後ろを向いて歩んでしまっていたかもしれません。



もしも、不快な思いをなさったり、正確ではない表現がございましたら、遠慮なく、教えてください。




悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から、感謝致します。m(_ _)m

弱さ

こんにちは、みなさん、お久しぶりです。

(^-^)


めったに記事も書いていないのに、読者登録をしてくださっているみなさま、心から感謝致します。ありがとうございます。



今日は、…フッと「自分の弱さ」と向き合う時間がありました。



短くしか書けませんが、ブログの記事にさせていただきます。



「自分を支えるための何か」を、受け取っていただけたら幸いです。




人間というのは、確かに、生まれてくる時も独り。


そして、死ぬ時もまた、独りきりです。



それは、永遠に変わらない、また、変えることのできない定めです。




でも、それを自らの定めと決められて生まれてきたのなら、せめて、生きている間に起こる数々の出来事くらいは、自分以外の誰かと分かち合っても良いのではないか…と、そんな風に思いました。



それを、分かち合えるくらいの信頼を胸にそっと抱いて生きるくらいの弱さは、忘れずに残しておきたい、と。



だから、「完璧」である必要などないんだ。



自分の「未熟さ」を知るが故に、人は学び続けるのだから。



学ぶことができるのだから。



そんな風に、思いました。




毎日毎日、絶え間なく起こる数々の出来事に、心が揺らいだり、不安になったり、自分との闘いは、尽きません。



そして、自分が闘うのと同じように、人もまた、そんな風に葛藤しながら、毎日を暮らしているのでしょうね。



誰も、みな。




弱いからこそ、支え合わなければ。




そんな風に思う、今日この頃でした。



それでは、また。(^-^)




お読みいただき、ありがとうございました。

心から、感謝致します。


人間とは

久しぶりにブログを更新します。(笑)



みなさん、いかがお過ごしですか?(^-^)




「老い」とは、全ての人に必ず起こります。



人は、おぎゃあとこの世に生を受けてから、その命を全うするまでの日々を生きます。



この世に産み落とされた日から、毎日毎分毎秒、「老いること」を始めます。


そして、「死」への旅路を歩み始めます。



幼い頃は、それを「成長」と呼び、ある一定の年齢を過ぎると、それは「老い」と呼ばれるようになります。



その基準は人それぞれであるかもしれませんが…ある年齢までは、人は年齢を重ねることを待ち焦がれ、そして、次第に、それを恐れるようになってゆきます。



きっと、「死」という概念を抱く強さが、日増しに増してゆくのでしょう。



そして、「老い」を感じるようになった人々は、「若さ」に執着するようになります。



自ら、「若さ」を持つ人々は、「老い」を疎ましく思います。



いつか自分がそうなるまでは、何も気付かずに。




「若さ」に執着する人々は、思い出してみてください。



自分にも同じように、若さに輝いていた時間があったことを。


その日々は、消えたわけではありません。



自分の一部と、なっているのです。



そして、そのような日々を通り過ぎ、日増しに皺の増える自分の顔を見て、今の自分をありのまま、受け止めてください。



若かった頃の数々の記憶、思い出と同じように、その頃の自分の輝きもまた、今の自分の中に変わらずにあることを忘れずに生きてください。


「老い」を恥じらうことなく、「老い」を学び味わう心を、大切にしてください。



そして、今の自分をありのまま受け止め、愛し、次なる世代へ、自分の中の愛を放ってあげてください。




「若さ」を自負する人々は、老いた人々を疎ましく思うことなく、彼らの中にある葛藤を、感じてあげてください。



「失う」ということは、誰にとっても恐れを抱かずにはいられないものです。



その恐怖を察し、彼らを慈しんであげてください。



やがては、あなたもまた迎える日々を、一足早く味わっている人々に、優しい笑顔と温もりを分けてあげてください。



高齢化社会により、若い人たちは、自分たちの老後には、公的年金を受給できないかもしれない…などと言われている昨今ではありますが、そんなことは、その時になってみなければわからないはずです。



もしも仮に、そうなったとしても、それは、誰のせいでもないはずです。



誰のせいでもないことで、誰かを責めるのは、おかしなことだと、思いませんか?






人間とは、弱い生き物です。


何かしらの対象を敵視したり、蔑視したりして、自分の均衡をようやく保てる…

そんな身勝手な生き物です。



だからこそ、その弱さを知り、それに打ち勝つ力を養う必要があります。



自分の心の曇りを知り、見抜き、それを拭い去る努力を怠ってはいけない生き物なのです。


自分の心を、見つめていますか?


あなたの心は、曇ってはいませんか?



その曇りは、表面上は、誰か自分以外の人を攻撃しているように見えますが、実際には、自分自身を攻撃しています。



だからこそ、曇りを晴らす努力を怠ってはならないのです。



自分の心を晴らしてくれるのは、



「人に優しくできた時」


「人と笑顔を交わせた時」


「人と理解し合えた時」



きっと、そんな時です。



みなさんもどうか、そんな日々を生きてください。





最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。


「自律神経」

こんにちは!



今日は、「自律神経」に関して、記事を書かせていただきます。



…とは言いましても、医学的見解は、私のような素人には無理なので、専門的な見解ではなく、「思考」という観点から見た、「自律神経」との関係性について、私なりの意見を述べさせていただきます。



誤った知識等、何らかの問題があるかもしれませんので、正確な知識を必要とされている方が、もしもこの記事に辿り着かれた際には、あらかじめご了承いただけましたら幸いです。



私には、人体の構造や、各神経系組織等への知識は、ありません。ほぼ、皆無とも言えます。



しかし、古くから…



「病は気から」



という言葉もあります通り、近年、「心の病」を患う方が増加の一途にありますことを、大変心苦しく思っておりました。



そこで私が注目したのが、「自律神経」でした。



「自律神経」の乱れにより、人は様々な病気を招くとされております。



このような理由を考えてみた時、まず私は、「自律神経」という名前の漢字に着目しました。



「自律」という漢字を、



「自分を律する」



と読み解きました。




常々、自分の思考の向きや、そのコントロール、はたまた、ストレスから身を守るための「思考法の工夫」について記事を書いてきたつもりでおります。



「幸福感」という観点においても、それは、とても大切なことでありました。




「性愛説」…すなわち、「人は生まれながらにして愛そのものである」という仮説に基づき、その姿が「本来の自分自身」であり、その姿に帰ってゆくことを目的に生きることで、人は幸せを感じられるようになってゆくもの、と考えてきました。



そして、このブログを読んでくださる皆様を励まし、癒し、私自身も共に人として成熟を目指し邁進してゆけたら…との思いで、言葉を連ねて参りました。



そんな中、ふっと…



「自律神経」



という言葉に辿り着きました。




「人というものは、往々にして、表面的に物事を改善すべく思考し、動くもの。」



であると、私には見えてきました。



しかしながら、



「本質を捉え、源を改善してゆくことこそが、全ての問題を解決できる唯一の方法である」



とも、同時に思っておりました。



そのように考えてきた私に、新たな気づきを与えてくれたのが、この「自律」という言葉でした。



心を病んだり、ストレスから体調を崩された方々の多くが、医師により「自律神経の乱れ」を指摘され、その改善のために、食生活、生活習慣を見直すことや、薬物による治療を余儀なくされていらっしゃることと、推測致します。



しかし、「自律」の文字の示す通り、何より必要なのは、



「自分を律する心を育むこと」



であると、私は思います。



その入り口が、宗教を介してであったり、他者を介してであったり、自らの経験を介してであったり、はたまた、一冊の本との出会いを介してであったり…それは、果てしない数、おそらくは、この世に存在する人の数だけパターンは存在するのかもしれません。



しかし、その先に通じる道は、必ず、ひとところで交わり、繋がっているものであると、私は考えてきました。



その先に待っているのは、「愛」であると。




そこにたどり着くために思考することこそが、



「自分を律すること」



に繋がります。



「律する」



という言葉の意味は、



「定める」



とされております。



「定める」



とはすなわち、自らの中に「軸」を置く、とも取れます。



その「軸」を育むことにより、「自律神経」は、揺らぎの幅を狭めると私は推測しました。




木の幹も、同じですよね?



幹が太くなればなるほど、揺らぎを防ぐことができます。




自然界に存在するものを通じて、人の在り方や思考を追求する時、必ずと言っていいほど、共通の理由を導き出せると私が考える理由もまさに、ここにあります。



壁にぶち当たり、自分の進むべき道、選ぶべき選択がわからなくなった時には、自然の与えてくれる生命力を感じ、その源にある概念と同様に素直に生きることが、人間には必要だと思います。




揺らぎの幅が狭まる時、人には不思議な現象が起こります。



その幅から消えてゆくのは、「ネガティブな想念」に限られるという点です。



苛立ちや、腹立たしさ、憎しみ、悲しみが、薄れてゆきます。



ネガティブな感情に飲み込まれる時には、呼吸が荒くなったり、心拍数が上がったりしますよね?



もちろん、感動や、喜びといったポジティブな感情によっても、身体に変化を感じることがありますが、これらの場合には、「不快感」は伴わないでしょう。



つまり、ネガティブな感情により、不快な興奮状態を自らに引き起こすことにより、人は、身体と心を蝕まれてゆくものなのではないでしょうか?



それを、昔の人は、



「病は気から」



というメッセージとして、私たちに残してくれたのではないでしょうか?




自らの精神の向かう先、在り方を追求することは、人が、健康に寿命を全うする上で欠かせないことだと、私は改めて思いました。





自分を律するための第一歩、への足がかりとして…



最近、出会ったことがらの中に、自分の興味、感動を深く味わえたことはありますか?



もしも、心当たりがあるのなら、そこに、あなたの探す答えがあるはずです。



一瞬の感動をないがしろにせず、捕らえて離さないでください。



何気ない日常の一瞬一瞬の中に、自分の可能性は散りばめられています。



もしも、その一瞬に出会えたなら、それについて、深く知ろうと探究し、そして、思考してみてください。



自分の可能性を、自分で広げてあげてください。



必ず、「自律神経の乱れ」は、改善されてゆくでしょう。



そして、朝昼晩の過ごし方は、きちんとその時間帯ごとの自然の変化を感じながら、「生命をいたわる心地」で暮らしてください。



その日々にすっかり慣れた時、きっと、「自分の願い」がわかるはずです。(^-^)



「夢」を抱いていた日々を、取り戻せると思います。


私も、頑張ります!





長くなりました。(笑)


最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から感謝致します。