「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

取り残されているわけではありません、きっと。

こんばんは、いかがお過ごしですか?



ふと、車を運転しながら考えていたことがありました。






私たちは、加齢と共に、自分自身が退化していっているのでは…と誰しもが思うことなのではないでしょうか?


そうして、自分の周りの人や物、世界に取り残されてゆくような、そんなもの悲しさを覚える時が。



私自身も、時折そのような寂しさに、ふっと襲われる時があります。(笑)



でも、よくよく、よ〜く考えてみました。



世の中や、自分の周りのスピードがぐんぐん上がって、自分がもしもそのスピードに置いていかれてしまっているとしたなら、必ず、その加速には、限界がくるはずなのでは?…と、思いました。(笑)



この世の中は、加速と減速を繰り返しているはずだ、と、私は思いました。



時間という概念は、一般社会においては、全ての人にとって共通の概念です。


すなわち、目盛りは、一定であるはず。



しかし、その目盛りを「多い」と捉えるか、「少ない」と捉えるか…



はたまた、「速い」と捉えるか、「遅い」と捉えるかは、自分の年齢や、体力、見た目などとは一切関係なく、単なる、意識の違いなのではないか…と。



つまり、生まれた時から、成長してゆくにつれ、自分なりに築いた「時間」という目盛りは、時代と共にある一定期間、早められてゆき、その後、次第にまた緩められてゆくのが世の中の傾向であり、それを何度も繰り返していて、自分が生まれてから慣れ親しんだ時間の流れ方とは違う傾向に入ってゆくと、人は、世の流れに取り残されているような錯覚を起こしてしまうのではないか、と思ったのです。



長々と、何を話したかったのか…と申しますと…、私たちは、加齢と共に、死へと近づいてゆく焦燥感や、得体の知れない恐怖との闘いを始めます。



その時に、何を根拠としているかと言えば、

それは恐らく、自身の老化してゆく肉体や精神を日々、目の当たりにしているからなのでしょう。



しかしその変化は、樹齢を判別するための年輪のようなもので、決して、悲観するための要素ではないように思えるのです。



年輪の刻まれた自分の顔を、


「老いて醜いもの」


と恥じるのは、可哀想だなぁと。



と、同時に、決して、世の中に取り残されているわけではないのだから、自分なりの生きるスピードを大切にしなくては、と。



周りを見渡せば、若々しく、輝いている子供たちや、青年が沢山います。



彼らを妬ましく思ったり、眩しがっているのではなく、私は、「自分」として、これまで頑張ってきてくれた我が身に感謝し、いたわり、これからも自分自身を見つめて生きていきたい。




「尊重」


という言葉は、ありとあらゆる場面で、その本来の意味を、私に示してくれます。



そして、今日も明日も、決して臆することなく、また恥じることなく、生きてゆくようにと、私をたしなめてくれます。



恐れる気持ちが芽生えたら、どうすれば、その恐れに立ち向かい、乗り越えることができるのか。



どのように考え、自分を納得させられる答えを導き出せるのか。



自分のことも、他者のことも、「尊重」という視点を忘れずにいれば自ずと、答えはぼんやりとでも、現れてきてくれます。



すると、恐れや焦りは、知らず知らずのうちに影を潜め、また、笑顔を取り戻せます。



「愛」を、ぼんやりとでも、感じることができるはずです。




さて…


明日からも、また、頑張りましょう。(^-^)




なんとも陳腐なまとめで、申し訳ありません。(笑)




悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。