「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

笑顔の裏側

こんにちは。

いかがお過ごしですか?




今日もまた、少しだけ父親の話をさせてください。(笑)



父親が亡くなったのは、早朝でした。

身支度を整えて、病院から実家に遺体が移され、父親の知人が多数、実家に駆けつけてくださいました。



その方々といろいろお話をさせていただく中で、私は、自然と笑顔になっていたようでした…。




父親の最期の入院期間は、約二週間でした。

その間、本来は、家族による泊まり込みの看護は禁止されている病院でしたが…

なんとか無理を言って、私たち家族は、毎日、皆で父親に付き添いました。



真ん中の兄は、自分の家族がいるため、泊まり込みまではしませんでしたが、それでも、寝る間を惜しんで、病室に顔を出していました。


約二週間の間に、私たち家族は、みるみる疲弊してゆきました。


正直、体力的には、限界でした。

たった二週間で、です。



ですから、介護に疲れてしまう方々のお気持ちが、よくわかりました。


終わりの見えない戦いには、必ず、自分を過信せず、気負うことなく、一人でも多くの方に協力してもらうことが必要だと思います。


そうしなければ、介護される側だけでなく、最悪の場合、介護をする側も、「共倒れ」になってしまいます。


そこには、「しなければならない」という気持ちに縛られることなく、もっと柔軟な発想を持っていただく冷静さを忘れずにいてください。


そして、きっと中には、見栄やプライドで、意地を張ってしまう人もいることでしょう。


そのような方には、


「プライドを捨ててこそ守れるプライドもある」


と、気づいてほしい。


一番大切なのは、「いのち」であることを忘れないでいてください。


頑張り抜いた先に、選択肢が「死」しかなくなってしまったように見えたのなら、それは、疲れてしまったせいです。


そのような時には、なんでもいいから、なりふり構わず、助けてほしいと、意思表示をしてください。


死を逃げ道にするのではなく、生きて逃げきることにこそ、意味があります。


生きて、生かしてください。

どうか、お願いします。




話が前後してしまいますが、そのようなわけで、…もう、自分たちにも体力の限界が感じられてきた時、父親は他界しました。


その間私は、幼少期、家族で過ごす団欒の時間がほとんど持てなかった子供の頃の自分が、満たされてゆくような不思議な感覚を覚えました。


父親は、最期の最期まで、私たちを気遣ってくれたかのように、今は思えています。


私たち家族は、この二週間の間に、各々の人生をこれから生き抜いてゆくための基盤となる「愛」を、最期の置き土産に受け取りました。


「生きる」ということに対して、執着するわけでもなく、「死」に対して、必要以上に恐れることもなく、ただ、自分のいのちと向き合う人の姿を、学ばせてもらいました。



全ての人の「親兄弟」という存在が、皆素晴らしい愛に溢れた人間であるとは、もちろん私も思っていません。



そして、私の父親も、世間の人から見たら、決して、素晴らしい人間などではありませんでした。

多くの問題を抱えた人間でした。




何をもって「愛」とするのか…


それは、現実的に表面で起こる様々なことしか見ることができなければ、そこで止まってしまいます。


自分自身の力で、「愛」と関連づけて考え、「愛」を受け取ることをしなければ、どれだけの愛情が身の回りに溢れていても、欠乏感しか得られるものはありません。



だから、自分で受け取ろうとしてください。


そして、受け取ることのできる自分でいられるように、生きてみてください。




…父親の死後間もないのに、笑顔で人と会話する私を見て、父親の知人の中のお一人がこう、言いました。


「お父さんが亡くなったのに、笑ってちゃいけないよ。」


と。




笑顔の人がいたら、その人は、本当に楽しくて笑っているのでしょうか?


もしかしたら、笑顔の奥に底知れない悲しみを抱えているかもしれません。


それでも笑顔でいなければならないとしたら、それは、その人にとって、とてつもない苦痛であるかもしれません。


それでも、その人は、笑顔でいようと、健気に頑張っているのかもしれません。



私は、この言葉を掛けられた時の悲しさ、悔しさを、忘れられません。



だからこそ、絶対に、私は、人に対して同じ言葉を掛けるようなことはしない。


そして、人の表情を見て、人の言葉を聞いただけで、その人を自分の思い込みで判断しない、と決めました。



自分と同じような悲しい目に、誰もあわせたくないと思いました。


「私は、この言葉に耐えられる。でも、全ての人が、耐えられるわけじゃない。」


そう思いました。



だから、誤解や、偏見によって、自分の心をないがしろにされてしまう人のやり切れなさを、私はよくわかります。

それは、事の大小に関わらず、また、いつ何時でも起こり得ることでもあるでしょう。



だからこそ、自分で食い止めて、他に流す時には、愛に変換してからにしましょう。


共に同じ傷を癒して、強く柔らかな優しさを胸に大切に抱いて、日々を生きましょう。



自分の弱さも、強さも、全部、一度整理してよく見つめてみてください。


今の自分の状態を、まず知ろうとしてください。



私にも、すぐにできたわけではありません。

今も、まだできない時があります。



でも、だんだん変わってゆきます。

それは、絶対です。



だから、やってみてください。



必ず、全ての人が「愛」を持って生まれてきています。



少しだけ…と言いながら、だいぶ長くなってしまいました。(笑)


そして、少し、暑苦しかったですか、ね?


読み終えた後、負担に思えるような方がいらしたら、申し訳ありません。




…愛に溢れた豊かな未来を、今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。(^-^)


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