「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

思考の歪み

こんにちは。

いかがお過ごしですか?



私は、常日頃から、「こころの病」とされているものの多くの原因が、「思考の歪み」によるものであると考えてきました。



記事を読んでいただく方々に、私から、私自身が現代社会を生きる中で感じてきた、人々の「思考の向き」というものの定義をご説明させていただきます。



これは、あくまで、私の抱いた見解です。

つまり、私の持っている「個性」の主張です。


決して、必ずしも、そうとは限らないかもしれないけれど…という前提でお読みいただけたら幸いです。



思考の向きとは、

一般的な言葉で説明すると、「ネガティヴ」と「ポジティブ」という対極の概念があります。


この場合、「ネガティヴ」とは、マイナスの方向に向けて、思考する傾向と考えられます。マイナスとは、「愛」を感じられない負の感情のことを指します。

わかりやすい例をあげるとすれば、「怒り」「嘲笑」「苦しみ」「残酷」「偏見」などがそれに当たります。



一方、「ポジティブ」とは、プラスの方向に向けて、思考する傾向と考えられます。プラスとは、「愛」を感じられる正の感情のことを指します。

わかりやすい例をあげるとすれば、「尊重」「平和」「癒し」「希望」などがそれに当たります。



どちらにも共通して使用した言葉があります。


「向けて」という言葉です。


つまり、人は、このどちらかの思考法を、自分自身の無意識のうちに、選んで行なっている、ということになります。


そして、そのような人々の「無意識」に焦点を当て、気づかぬうちに、思考の傾向を習慣化させてしまう要素の一つが、「情報」です。


ですから、自分の精神の状態、思考の傾向がわからない人にとっては、一つ一つの「情報」が持つエネルギーそのものが、その人にとってリスクとなり得ます。


つまり、ポジティブ、ネガティヴ、そのどちらかに「向けて」思考する自分の思考法を見抜けていない段階の人にとっては、自分に与えた情報によって、ポジティブ、ネガティヴいずれかに、無意識のうちに「向けられている」可能性がある、ということです。



自分の思考の癖や歪み(コンプレックス)の存在を認識していながら、そこに向き合えずにいる人がいるとしたら、その人たちは、無意識のうちに、「これでいい」と逆向きの思考のまま生きるための情報を自分自身に与え続けているはずです。



情報の質を見抜きましょう。

そして、選別し、自分のためになるであろう情報を選び、与えてあげてください。


それは、第一に自分自身のためです。


そのままでいたら、犯罪を起こしてしまい兼ねないリスクがあることに気づいてください。


自分を「幸せを感じられる状態」へと、育ててあげてください。


必ず、できます。



そして、情報の選別ができる段階にある人たちは、それができていないであろう人たちに対して、


「こいつは何にもわかっていない。」


「この人には、絶対にわかる日はないだろう。」


と、見捨てたり、見下したりすることなく、自分が手本となり導く姿勢でいてもらえることを、心から願います。

手本になるということは、そのための指導をするということではありません。

自分自身が、その人と同様に、自分を見つめ続け、理想を選んで実際に行い続けるということです。

口で言うのは、簡単なことなのです。

自分が行い続ける、ということが肝心です。



他者がそのような状態でいることを見捨てたり、見下したりして投げ出すということは、その時点で、自分もまた、成長を放棄したことになってしまいます。


自分を過信せず、いつも謙虚に、愛を探し続けてください。


それが世の中に循環した時、世界は必ず、大きく変わります。


「自分」が生きること、存在することの重要性は、全ての人にあります。


だから、それを忘れずにいてください。


自分が他者を尊重できずに、軽んじているかどうかの判断は、他者の言動を「善、悪」の基準に基づいて判断しているかどうか、でわかります。


自分自身のことというのは、現実を生きる必要のある私たちにとって、一瞬で見失ってしまい兼ねません。


その度に、自分のどこが他者を尊重できていなかったのか、と振り返ることを忘れずにいれば、たとえ少しずつであっても前に進めます。


人は神ではないのだから、最初からできなくて当然なのです。


日々、学ぶ姿勢を忘れずに生きてゆきましょう。





自分自身の精神の状態を把握しながら、自分を見つめてゆくと、次第に、今までのようには、解決できない困難に突き当たることがあります。

もし、自分がそのような状態に差し掛かっているかもしれない…と感じる方がいらっしゃったら、


「人として抱く愛」


とは別に、今度は、


「自分自身の性として抱く愛」


の存在も、少しずつ視野にいれてみてください。


傷は、もしかすると、「人として」ではなく、「性として」隠れているかもしれません。


また、日を改めて、「性」について記事を書かせていただきます。




バランスを保って、「愛」をいろいろな視点から探してみてください。



悲しむ人が一人でも減ってくれますように、今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。


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