「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

みんなの本心

こんにちは。

いかがお過ごしですか?




人が、人に与え得る最大の宝は、「愛」であると思います。



そしてそれは、その一つ一つが決して偉大であったり、大きかったり、激しかったりしなくても、「積み重ねてゆくこと」に、意味があるように私は思います。



ある一つの出会いがあり、その人との縁が生まれたなら、その人を嫌うために繋がるのではなく、その人を愛するために繋がりましょう。



その相手が、たとえどのような人であっても、です。




最初にお伝えした通り、「愛」は、大きければいい、激しければいい、というものではありません。




ささやかであっても、「愛」は、「愛」です。



私の言わんとしていることをご理解していただけるでしょうか…。




裏を返せば、



「自分から人を傷つけたり、苦しめたりせずに生きましょう。」



と、お伝えしています。



どのような行いが、人を傷つけたり、苦しめたりするのかを、ちゃんと、わきまえて生きましょう。



傷つけていい相手は、この世に一人もいません。


そして、苦しめていい相手も、この世に一人もいません。




もしも心ない人によって、不運にもそのような目に遭わされてしまった時には、同じ想いをする人がいなくて済むように、願いましょう。



そのように、生きてゆきましょう。



確かに、苦しかったでしょう。

本当に悔しかったでしょう。

辛かったでしょう。



そして、今でも、許せない気持ちでいっぱいでしょう。



それでも、自分の所で、終わらせましょう。



人を罰しても、同じ目に遭わせても、自分の心の傷が消えるわけではありません。



それどころか、新たな傷を自分に負わせてしまうことになります。



誰か、得をする人がいるのでしょうか。



きっと、誰一人、得をする人はいないはずです。





「繋がり」とは、「生きる」ということでもあります。



人は、決して、独りきりで生きてゆくことを望んで生まれてきたわけではないでしょう。



孤独に嘆き、一生を終えることを望んで生まれてくる命は、きっと一つもないと思います。



そして、傷つきたい人も、苦しみたい人も、本来は一人もいないはずです。



それなら、みんなで、互いの望みを叶えあいましょう。



簡単なことなのに、難しくしてしまっているのは、私たちが臆病だから。



そして何より、切実に、本当はそうして生きていかれることを望んでいるから。



私は、そう信じています。




可哀想で、辛くて、これ以上、傷つけ合う人たちを見たくありません。



「理解」は、自分から、始められます。



最初の一手は、「自分」から打つことができます。


他者の変化を待つのではなく、自分が先に、それに気づきましょう。





悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。



心から、感謝致します。



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