「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

自信

こんにちは。

いかがお過ごしですか?




なぜ、自分を否定した人、自分の思い通りにいかない人を憎む気持ちがわくのだと思いますか?



それは、


「自分が正しい」


と、思い込んでいるからです。




本当に自分を正しいと思っていい時というのは、



その選択の結果、誰一人として、傷つく人がいなかった場合だけです。



そこに、



「損得」や、「世間体」や、「常識」などの「全ての人」に必ず当てはまるわけではない基準を介入させる時、人は、誤った判断を下してしまいがちです。



考える指針そのものが、正しくないのです。



自分の軸とするべきもの自体が、最初から偽物だったのです。




「自分が正しい」



という、自分自身すら制限してしまう価値観は、もう脱ぎ捨てて良いものではないでしょうか?



自分を苦しめている価値観は、自分から、取り除いて大丈夫です。


本来は、不要なものです。




「自信」


というものは、


「自分を正しいと思うこと」


ではありません。



「自分は誰も傷つけなかった」


という事実の塊です。



自分も、自分以外の人も、同じように守ることができた…という経験の積み重ねによってのみ養われてゆく輝きです。




「自分が正しい」


という考え方は、必ず、別の誰かを


「あなたは間違っている」


と定めなくてはなりません。



でも、その基準自体が、そもそも


「誰から見てなのか?」


と考えたら、いかに曖昧で不明瞭なものであるか、わかるはずです。



「誰からみても」


という確信が持てなければ、本物の


「自信」


は、一向に育ってはくれません。




そのために試行錯誤を繰り返し、様々な可能性を想像し、日々の中で検証してゆき、擦り合わせてゆき、大切に育ててゆくものがあります。



「愛」



です。




異性や、動植物、子供たち…対象となるのは、生きとし生けるもの全てです。




「自分の中に眠る愛」を探し求め、取り戻し、その姿に自分自身を帰してゆく日々が、全ての人に対して、あなた自身から滲み出てゆくようになる「自信」となります。




一生懸命、人間らしく生きていれば、誰にでもできることです。




格好や、体裁などにとらわれず、素直で正直な自分を生きれば、いいんです。




不器用でも、嘘偽りなく一生懸命であれば、必ず、救いの手を差し伸べてくれる人に出会えます。




同じように生きている誰かが、必ず、救いの手を差し伸べるために、そこにいてくれます。




大丈夫です。










<私が、あなたを見つけます。

あなたが一人傷つき、悲しんでいたら、

私があなたに微笑みかけます。

そして、あなたを守ります。



あなたがこれまで、

どれだけ一生懸命であったか、

わかるから。

私と同じと、わかるから。



私たちは、互いに、気付けます。



だから、

恐れることなく生きてください。

人間らしく、そのままに。



大丈夫。


あなたはいつも、ひとりぼっちではないから…。>









悲しむ人が、一人でも減ってくれますように、今日も願います。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。





心から、感謝致します。


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