「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

生きる意味

こんにちは。

いかがお過ごしですか?





私の母は、頑固です。(笑)

人の言葉に耳を貸そうとはしてくれません。



いつも私たちが変化を促すと…



「あ〜そう、あたしが悪かったよ。すみません、すみません。」



と、話を遮ります。



そして、時間が経つとまた、同じことを言っては私たちを困らせ、エンドレスでこれを繰り返します。(笑)



母の口癖は、


「あたしが死んだら、保険金であんたたちを楽にさせてやるから。」



です。(笑)



…私は、いつも、この言葉に涙が出そうになる程傷付きます。



家族が亡くなって手にするお金に、私は、価値を見出せません。



母の命と引き換えに大金が手に入っても、私は、全く嬉しくありません。



たとえ、憎まれ口しかきこうとしない、母性の弱い母親でも、顔を合わせれば愚痴ばかりでも、年々意固地になってゆこうとも…



私は、母が生きていてくれることが何よりだと思っています。





人の命は、儚くて、尊い




私は、


「人は死んだら無になるもの。」


だと、思って生きています。



死んだ後、亡くなった人の魂を供養したり、成仏を願ったり、生きている人たちは、様々、生きていた頃の姿と、亡くなった後の姿とを結びつけて偲ぶ風習がありますが…



失礼なことを申し上げているかもしれませんし、誤解を招く表現かもしれませんが、人は、



「いかにして自分の人生を生き抜くか。」



が全てだと思っています。




だからこそ、



「いかにして他者にその人の人生を生き抜いてもらうか。」



という課題も一緒に背負っていかなければならぬもの、だと思います。




「死は全ての人に免れようのないもの」


でありながら、



「死を見つめて怯えながら生きる」


のではなく、



「死を迎える瞬間まで精一杯生き抜く」



ことに意味がある。



それが、全ての人に等しく課せられた責務であると、私は思います。




それを忘れずにいれば、日々の生活の中で起こる様々な出来事一つ一つに意味があり、それら全てが、大切な思い出になり得る価値のある出来事だと、認めざるを得ないのではないでしょうか。



全ての出来事に、意味と価値を見出すのは、自分自身です。



意味のない日、価値のない日、などきっと本当はありません。



1分1秒、全ての瞬間に意味があります。



それに気づき、自分の生きる日、生きる世界に意味と、価値を生み出すのは、自分自身です。



自分の一挙手一投足に全力であれば、意味も、価値も、自ずと生まれてきます。



誰にでも、全ての人に、生まれてきた意味と、命の価値が等しくあります。




「人は、生まれながらにして愛そのものである」



私のブログタイトルである


「性愛説」


とは、みなさんにそれを忘れずに生きていただくための意味を込めてあります。




性善説」、「性悪説」、で世の中は変わるでしょうか?




私には、そうは思えませんでした。






2018年も今日で終わります。


この数ヶ月、ブログを介してお世話になりました皆様、本当にありがとうございました。




来年もよろしくお願い致します。(^-^)





最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から、感謝致します。


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