「ゼロ」〜性愛説を唱えます。〜

「性善説」「性悪説」ではなく、「性愛説」を提唱します。

息子

みなさん、こんばんは。

いかがお過ごしですか?





私は今、14歳の息子と過ごしています。



訳あって、離婚した後は元旦那さんに養育されている、私とは苗字の異なる一人息子です。



年に数回、まとまった休みの度に、私は彼と数日過ごします。




彼は幼い頃から、大人びた考え方をする、一風変わった子供でした。




小学校一年生の時に離婚してから、私は、彼との距離感をずっと、自分の中でコントロールしてきました。



「産んだ子供を手離す」



ということの意味は、おそらくは、他者には受け入れられにくいことであると、私はよく理解しています。



人というのは、他者の事情を推察する時に、とても安直で、うがったものの見方をする傾向にあります。



わかりやすく言えば…



「女親が子供を引き取ることが普通なのに、それができなかった、ということは、そうせざるを得ない事情があったはず。」



という偏見です。



私は、そう人から判断される可能性の高いことをわかっていながら、人の意見を否定しきれない自分を、ずっと見つめてきました。



私が離婚した事情は、他に好きな人ができたから、ではありません。



私は、子供を捨てたつもりは一切ありません。



けれど、息子にしてみれば、いかなる事情があったにせよ、自分の側にずっといてくれない母親には違いありません。



ですから、普段、日常的な心のサポートをしてあげられない分、彼の葛藤や、悩み、傷、そういうものは、私にできる限り集中して、会っている間に癒すことをしてきました。



離れて暮らすことを受け入れた時点で、私にとって彼は、精一杯、自分へ依存させないように、自立できる距離を保ちながらも、愛を伝えなければならない人でした。



なるべく、母親のいない寂しさを感じさせないように配慮しながら、女性を憎んだり、恨めしく思わずに済むように、彼を守りたかった。



ギュッと抱きしめて離したくない想いを、全力で押し殺して、それでも愛している、という想いを伝えるためにできることは、彼の心に、彼が私を必要としている時、適切な距離を保ちながら寄り添うことだけでした。




私は、息子のお陰で、自分の思考に幅ができたことを、今さらながら痛感しています。




今、14歳の彼は、まだ未熟な精神ながら、とても心根の優しい感受性の豊かな少年に育ってくれました。




私は、彼を誇りに思います。




今日も、二人で泣きながら話をしました。(笑)




子供たちには、子供たちなりの苦しみがあり、考えがあり、わからないことを、わかるように教えてほしい、導いてほしいという意思があります。




それを導き、これから歩んでいく道に光を照らしてあげることが、私たち大人の役目であると、改めて思いました。




自分が先に暗闇を照らさなければ、大切な人に安心して委ねてあげられない…



新年を迎え、より一層身の引き締まる思いでおります。




子供たちの、明るい未来を願います。







最後までお読みいただき、ありがとうございます。


心から感謝致します。



みなさま、今年もよろしくお願いします!

(^-^)